CHAPTERⅠ、あっという間の再会(2)
その数時間前のこと――。
郷原の部下で、かつ、お守り役である元刑事の田代英明は、家の中で、今日、病院から帰ってきたばかりの母親と、息子の直人から、白い視線を浴びせられていた。
特に、田代の息子、直人の視線は強烈だ。完全にじと目になっていた。田代はうっかり見慣れぬナンバーの電話に出た自分を後悔した。会話から、電話の相手が女性であることが知られてしまったようである。
「だからさぁ~……。今、郷ちゃんは大勝負……、じゃなかった、えーっと……。仕事の最中で、連絡は取れないんだよ、弱ったなぁ~……」
それに続いて、電話の向こうが何かを言っていた。聞き耳を立てる直人だ。若い女の声――。思わず眉間に皺を寄せていた。
「え? 鍵を拾った? 家の鍵?」
田代は眼を丸くした。電話の向こうの女の説明によると、12月24日の朝、郷原と別れて、自分もホテルの部屋をチェックアウトしようとしたら、ベッドのサイドテーブルの下に鍵が落ちていたという。どうしたら郷原本人に知らせられるか考えたら、そういえばこの田代から、郷原の別れの伝言を電話で告げられた。ホテルの電話に田代の携帯の着信履歴が残っていたので、それをメモしていった。
午前中電話をかけたがつながらず、午後にもう一度かけてつながらず、そして3度目の正直でやっと、今、田代と連絡がついたのだ。
田代は後ろ頭を搔いた。今日はたまたま、膝を悪くして入院していた田代の母が、自宅に戻って来る日で、介護用品を買いにいったりしていて田代も忙しかったのだ。
電話の向こうで、女は言った。家の鍵なら早く本人に返してやらないと、郷原だって困るのではと……。
田代は時計を見た。今は無理だ――。占い賭博が始まっている時間だ。それに、田代は郷原から、くれぐれも北山あかりに、自分の個人的なことは教えるなと、何重にも念を押されていた。
「うん。うん。そういう事情か。なるほど……。でも、今すぐはちょっと無理……。今、郷ちゃんは仕事の最中だから……。なんなら、おじさんがその鍵、預かるよ。あ、というか、そういえば宿無しだったよねあんた。むしろ今から、おじさんとお寿司食べに行こう。迎えに行くから。あんなひょろメガネなんかより、おじさんのほうが絶対、アッチのほう上手いし。すんごいの教えてあげる。あっ、ちょっと!!」
電話を叩き切られた。田代は苦笑いをして頭を搔いた。男の性だ。顔は少々ガキっぽいが、魅惑的な腰つきのあんな娘を、郷原が要らないというのなら、自分だっていいではないかという、かなり本気のお誘いだったのだが――。
「今の女、誰だよこの変態親父。またガイジンか?」
「いや、父ちゃんの、知り合いの知り合いというか……。ははは。嫌われちゃった……」
がっくりと、首をうなだれる田代であった。
**
「がぁッ!! 気持ち悪いッ!! なにこのおやじッ!!」
北山あかりは、電話を押し当てていた耳をしきりにこすって、中年男の田代との通話を切った。この間のあの、誠実そうな、硬派なメッセンジャーぶりはいったい何だったのだ。これではただのエロおやじではないか。
「郷原さん、あんなエロじじいが部下だなんて……」
いざとなれば、田代に鍵を渡すことも考えていたのに、これでは田代は役に立たない。
「これ、たぶん家の鍵よねぇ……」
金メッキの3センチ角ほどの正方形をした、印鑑型のキーホルダーに、ディンプル型のキーと、シリンダー型のキーが2個ついていた。キーホルダーは、どこかの地方のお土産物屋で売られているような、安っぽいキーホルダーだ。
「マンションの鍵かしら……。最近のマンションのドアって、防犯のために、だいたい鍵が2個つけてあるものね……」
たぶん、あかりが眠っている間に、こっそりベッドを抜け出した郷原が、バッグから札束を取り出したときに、落としてしまって、そのまま忘れていったものだろう。あの夜、二人一緒のベッドで眠る前までは、床にこのようなものが落ちているのは気が付かなかったのだ。あかりが部屋を去る間際、落ちているのに気が付いた。
「家の鍵なら、きっと困るよね……。ふぅ……」
あかりはとりあえずの居場所に定めたインターネットカフェで、フリードリンクのココアを飲みながらぼんやり考えた。そして閃いた。
そうだ、新橋ダイヤモンドパレスホテル――。郷原と、一夜を過ごしたあのホテル――。
そこで拾った鍵なのだから、そこに返せばいいではないか。
チラリと時計を見ると、郷原と別れて二日目の、12月25日の午後9時だった。とにかく早く郷原に、この鍵を返したい。そして、100万円を置いていってくれた礼をいい、できれば正式にこれを、借金ということにして欲しかった。
あかりは、座っていたネットカフェのオープンスペースから立ち上がると、自分の荷物をそこのロッカーに入れて、受付に向かった。またここに戻るので、外出チェックをしてもらおうと思ったのだ。
ところが――。
「お客様、外出の場合は、現住所を証明できるものを……」
「え? げ、現住所を証明できるもの?」
「はい。たとえば公共料金の支払い済み伝票とか、運転免許証、有効期限内のパスポートなど……」
「そんなの、無いわ」
「それですと、12時間を超えてのご利用はできません」
「そ、そうですか……」
仕方がなくあかりは、一度入れたロッカーから、荷物を取り出した。リュックサック1個分しかなかったが、中身は着替えなのでかさばる。それを背負うと、バックパッカーみたいだ。
仕方なく、ひとまずの居場所を出た。郷原と別れてから、100万円をなるべく無駄に使いたくなくて、あかりは、安い喫茶店や、24時間営業のファミリーレストラン、ネットカフェなどを転々として過ごしていた。最近は東京都の条例で、あかりのように身元の定かでない者は、ネットカフェに泊まるのも難しい。
そういえば怖いのは、携帯電話だ。これは、嫉妬深い谷中が、あかりを監視するために持たせた携帯電話で、契約は谷中名義になっていた。しかし、これから勤め先を探したりするのに、携帯電話がないと困る。谷中の元を飛び出て以来、あかりは連れ戻されることに怯えていた。最近の携帯電話は、電源さえ入っていれば、GPSで探せるから怖い。
(また、あそこに連れ戻されたらどうしよう……。今度こそあたし、殺されちゃうかも知れないわ……)
道行く人は、カップルや家族連れで、楽しそうに街を歩いている。すれ違うたびに怖くて、惨めな気持ちになった。思わず、無意識に探してしまう……。
考えたくない――。郷原の影を探していることなど、考えたくない――。
これは、仕方がないのだ。彼が鍵を落としていったのだし、家の鍵なら無ければ困る。立派な理由であって、ストーカーなわけじゃない。
あかりは地下鉄に乗り込んで、自分で自分に言い訳した。そのくせ、ネットカフェを追い出されたことで、ダイヤモンドパレスホテルに居られる理由もできてしまったことを、どこかで喜んでいる自分も感じていた。
ずっとあそこで待っていたら、ひょっとして、もう一度郷原に会えるかも――。
(バカねぇあたし……。そんなわけないのにね、フフフ……)
東京メトロ――。初めて東京に来たときは、どこへ連れていかれるかわからなくて、とても怖かった。友達もいない、知り合いもいない大都会――。我ながら、こんな場所に一人ぼっち、よくぞ福井の田舎から出てきたものだと思う。
(でも、芸能事務所のオーディションで純菜に出会って……。同じ夢を追いかけて、楽しかった……。純菜……。今ごろ、何しているの……? まだ、女優を諦めていないの……? 会いたい……。でも、みんなを裏切ったあたしのこと、きっともう、あなたは許してはくれないでしょうね……)
いつの間にか、ダイヤモンドパレスホテルの最寄駅だった。冷たい風が地表から地下鉄に流れ込んできて、寒い。着替えしか入っていないリュックをしっかり握りしめて、あかりは、地下鉄の階段を一歩一歩昇っていった。
やがて、目の前に開けたロータリーと、地下駐車場と、金色の落ち着いた照明がともるダイヤモンドパレスホテルの正面玄関である。あかりは急に、自分の服装が気になった。
なにしろ、着の身着のままで谷中のところから逃げてきたあかりは、郷原に買ってもらった急場しのぎのジーンズとシャツに、昨日買い足した冬用のコートと、ブーツを穿いて、見るからにみすぼらしい姿だったのである。ホテルの玄関ガラスに映る自分は、上品なシティホテルには、完全にそぐわなかった。
(でも、返さなくちゃ、鍵……。おカネも……。きっと大切なものだもの……)
意を決してフロントへ向かう。
ベージュ色のシックな制服を着たフロント係に、あかりは、二日前、ここの27階スイートルームに宿泊した男のことを訊ねた。
「郷原悟様、ですか……」
「はい」
「そういうお名前では、ご宿泊はありませんでしたが……」
フロント係は首をひねった。
「じゃあ、会社の名前とか。確か……、平安ファイナンスって言ったかも……」
「平安ファイナンス様、ですね。少々お待ちください」
そう言って、フロントの女性は端末を調べたが、そう言う団体・法人の宿泊はないという返事であった。
「じゃあ、鍵の忘れ物をした人から問い合わせが来ていたりとか……」
「そうですね。二日前、12月23日ご宿泊のお客様から、鍵のお忘れ物のお問い合わせは、いまのところございません」
「………………」
そういえば、ドラマかなにかで見たかも知れない。危ない世界の人間は、偽名でホテルを取るという話――。
あかりはよろよろと、がっくりして、フロントの手前に広がるロビーのソファに腰かけた。こうなる予想はしていたけれど、それでもショックだ。
そういえば、ロクに眠っていなくて、疲れ果てている。涙が自然とこぼれてきて、谷中のことも怖い。気が変になりそう――。
ここには、あかりにとって安心できる、父親そっくりの匂いがする、郷原の痕跡が残っている気がした。人目もあるし、もし谷中の部下が自分を拉致しに来ても、ここなら、大声を出せばきっと誰かが助けてくれるはずだ。
そう思うとなんだかホッとした。時刻はもう夜10時過ぎだ。
(もう疲れた。フロントの人に叱られてもいい。あたしはここを動かない……。動くもんか……)
あかりはロビーのソファに体を埋めると、安心感からか、いつの間にかウトウトしてしまった。よっぽど疲れていたのだろう。
しばらく経って、かなり寝こけてから――……。誰かが、あかりの肩を叩いたので、あかりはひぃッと飛び上がり、ソファから落ちてしまった。
「お客様、こんな場所で眠られては、風邪を引きますので……」
見れば、このホテルの警備員である。
「あ……」
「ご宿泊の方ですか?」
「い、いいえ……。ひ、人を待っていて……」
「人?」
「このホテルによく泊まる人みたいなんです。どうしても渡したいものがあって……」
ふと周囲を見回すと、すっかり人影が無くなっていた。辺りの照明がワントーン落とされている――。フロントの時計を見ると、時刻は深夜0時を過ぎていた。
(なんだか、バカみたい……。朝まであたし、こんなことしているつもり……?)
「人探しか何か知らないけど、宿泊客でないなら、いつまでもここに居られても、困るんですよ」
「……でも、泊まれる場所などないわ……。帰れる場所も……」
あかりが泣きそうに弱々しい声でつぶやくと、警備員は事務的に言った。
「とにかくここを出てください。0時を過ぎますとフロントロビーは、ご宿泊者様だけしかご利用できません」
「……わ、わかりました……」
のろのろと、仕方がなく立ち上がるあかりであった。
(また、ファミレスにでも行くしかないわね……。はぁ……)
ホテルの玄関の自動ドアを出て、暗いロータリーを見回した。真冬の深夜の、しんとした空気が流れてきた。もう最終電車もない。どこへ向かって歩いていいのかわからない。行くあてなど本当に無いのだ――。
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