占星術師が考える「発達障害」。

 「発達障害」なんていう言葉を最近は、よく見かけます。

 私は占星術師ですから、占い業界を遠くから見たり、ときたま最中にいたりするのですけれども、占い師という人にも、発達障害「みたいな」人は多いです。

 ただ、「発達障害みたいな」人、であって、「発達障碍者」とは思いません。なぜなら「健常発達」だからお前らは俺の気持ちがわからないと言われてしまえば、それはもうコミュニケーションの断絶表明にしか聞こえませんし、人間、いい状態のときもあれば悪い状態のときもある。簡単に線引きすることなどできるのでしょうか、とも思いますね。

 占星術師ですから、どうしても「占いの言葉」で語ることになるのですが、この、「診断」というヤツぁ占いの現場でもしばしば問題化します。

 精神科医と占い師は、やっていることはほぼ同じです。精神科医はその人の話や、成育歴、趣味嗜好、現れている症状などから総合的に「病名診断」します。占星術師はその人の話を聴き、星の位置関係などからその人の「運命診断」します。どちらもしょせんやっていることは「診断」ですから同じです。なのに占星術師の社会的地位は低い(笑)。まぁ、低くて上等ですけどね。こんなもん高くしちゃいけない。アウトローですから。

 

 さて、この「診断」というヤツがもうあきまへんのや。。。 ここは、私が尊敬してやまない、大好きな心理哲学者、ケン・ウィルバーも明確に指摘するところです。

↑  ↑ ケン・ウィルバー。

 

 「診断」というのは、「二元性」の極みのようなものなのです。「診断」自体が「宇宙を二つに割る」という行為そのものだとウィルバーも言っているし、私も心底同感です。

 たとえば「がん」。たとえば「認知症」。

 これらは、もう診断された瞬間から「がん患者」「認知症患者」でございます。

 それまではただの鈴木さん、田中さんでいられたものが、診断されたとたんにただの「がん患者」「認知症患者」に分類され、嫌でも「がん患者」「認知症患者」として扱われてしまう。これまでと宇宙がバチッと分かれてしまうのです。

 そして、たとえば「がん患者」認定されても、一番困惑しているのは誰でしょうか???

 「私」?? うーん、惜しいけど、違います。「患者認定」されて困るのは、「私」の本質中の本質、目に見ることはできない私の「こころ」であります。私、ではなく、私の「こころ」が困るのです。

 「私」本体はむしろ困りません。だって「がん患者」でしょ?? 痛いし、つらい。だけど認定されているから、体の辛さや症状の辛さを訴えることができます。これは食べられない、食べられる、こういう仕事はできる、できない。「がん患者」という印籠でもって、「私」の苦痛を取り除くことができるのですから、「私」は何も困らないのです。

 しかし、私を産み出している根源の「こころ」は、戸惑います。

 え?? がん??? 私、死ぬの???

 って、こうなりますよね。占いで、「結婚運悪い?? じゃあ一生結婚できないの??」と――。

 つまり、「診断」は、「私」にはメリットだが、私の「こころ」にはデメリットであるわけです。それはなぜかといえば、「こころ」には形がない。どこまでがこころの大きさなのか、重さなのか。こころを掴むことも、見ることもできません。こころは本来「定義できない」のに、「がん患者です」「認知症です」「結婚運最悪です」「発達障害です」という診断をされ、枠にくくられたように感じてしまうから、診断されることによってこころただ一人のみが「困る」のです。

 みんなここを混同しています。 それで、本当は「発達障害です」「がん患者です」「認知症です」と診断されて助かっている「私」の有難さを見失い、「私」よりもさらに大きく形の無い「こころ」の違和感だけを世間にぶつけてしまう。もっともっと「私」にやさしくしろ、「私」の辛さをわかれと、議論の方向性がおかしくなるわけですね。

 「私」と「こころ」は、別モノです。「こころ」にはサイズもない。重さもない。鏡に映すこともできない。線引きもできない。定義できない。しばれない。ないないづくしのなんーーーーーーーもない。だから仏教ではこころそれそのものを「くう」といいます。こころは「空」だからこそ、診断を受けると途端に苦しみ出すのです。でも「私」のレベルでは、診断を受けて本当は大いに助かっているはずなのです。

 同様に、いじめっこが、「ブス」「デブ」「きもい」「くさい」などと言ってきたとしても、それは「こころ本体」ではない。だけど、言われて苦しむのは不思議なことに「こころ」なんですねぇ……。対外的な「私」は、本当はブスと言われようが、デブと言われようがなにも困っていないのです。別に言われておカネが減るでしょうか。命が短くなるでしょうか。何か損しますか?? しませんね。だけどブスとか、デブというのは「定義」ですから、ある種の「枠(フレーム)」です。そのフレームで、無限のこころが縛られる、枠に閉じ込められた感じがするから、みんな「なんてひどいことを!」と言って怒る。でもそれは、「私」と「こころ」を混同しているだけで、本当は間違った受け止め方です。いじめっこにブスといわれようが、キモヲタ死ね! と言われようが、本当は表面的な「私」はなにも困りません。「無限のこころ」のほうが、「こころをこいつらは、枠にはめた!!」から、怒るのです。それぐらいこころは無限、インフィニティなのです。

 そしてなんと「こころ」は、誰にでも理解できます! ここがとんでもないところです!

 鏡に映せない、触れない、形の無い、色のない、音のない無限の「こころ」なのに、人間はみなそれを理解できるのです!! これはすごいことです!!

 だってそうでしょう?? いじめっこが例えばA子ちゃんという子をネットで「ブス」「デブ」「きもい」「キショい」と罵ったら、無関係な外野でさえ「なんてひどいことを!!」といって、いじめっこに怒りを感じるわけです。A子ちゃんだけでなく、犬猫に対してだって、捨て猫に感情移入して助けてしまったり、怪我した犬を保護したり、植物にさえ救いの手を差し伸べる人がいる。そして、A子ちゃんにひどいことを言った連中の「こころ」さえ理解しなきゃ気が済まないから、「なぜそんなことを言ったのか」という動機解明にみんな、やっきになるのです。殺人犯凶悪犯の「こころ」でさえ、我々は理解したがるし理解できると思っていて、実際にそれで涙ながらに自己を悔いて死んでゆく死刑囚もあります。紆余曲折へて、ようやく他人の「こころ」が、死刑囚が理解できたのです。

 こころという無限のものに、「診断」という枠を加える――。

 これは占星術診断においても、普通の精神診断においても、我々分析する側がつねにぶち当たる壁です。

 仏教では、この、すべての人が理解できることを「仏性」と言います。つまり、診断上はかたや「発達障害」であって、かたや「健常発達」であったとしても、それをはるかに超えたこころの世界では「仏性」として理解し合えるのです。ここには健常も異常も、がんも認知症も存在していません。

 するといきおい、「発達障害」とか、「がん」とか、診断されて、苦しみ始めたとしたら、それは「無限のこころ」が痛いのであって、「私」が苦しんでいるのではないということになるし、その苦しみを解決するのは「こころ」にアプローチするしかありません。ユングのいう「共通意識・共通無意識」というのは、まさにこの「仏性」だと私は思うのです。

 実は同じことが「星座占い」とか、ホロスコープ語りにも言えてしまいます。

 星座占いは「発達障害診断」とまさに同じことなのです。

 あなたはさそり座の金星だからこう、こういうホロスコープだからこう、こういうアスペクトで、こういうハウスだからこう、というのは、発達障害診断やがん診断と同じことなのです。

 そして、たとえばさそり座に金星がある私と、しし座に火星がある彼氏では相性が悪いとか、お姑さんと気が合わないのは、お姑さんが真面目なやぎ座なのに私は自由なふたご座だから合わないとか、さらによくわからないのが、お姑さんが気に入るようにやぎ座が好むような受け答えしたら?? とか、しし座の火星がよろこぶように性的アプローチしてみたら?? みたいな、おかしな論理になる。

 それらは「表面的なこと」です。それらは「私」であって、私の「こころ」ではありません。私がなぜ、「私のこころ」とは書かないで、私の「こころ」と言う風に、かっこをしているかということを注目して欲しいのです。「こころ」には私などない、ということです。私の「こころ」とは言えても、「こころが私」とは言えないのです。これはデカルトの時代からそうです。古代ギリシャでも哲人たちが考え続けてきたことです。こころには質量がない、色がない、音もない、見ることも触ることもできない。宇宙がある・なしで決められない。一元なのですね。

 だから、すべては「こころ」でものを見るよりほかはないのです。しし座火星の彼氏と、さそり座金星の私が、相性が悪いならば、それは「仏性」というより大きなモノサシで相手を見ないからこそ起こることであって、「仏性」という、すべての人間に理解できる生き方や人間性でもって相手に向き合うなら、そのときしし座だとかさそり座だとかは木っ端みじんにどうでもいいことで、吹き飛んでしまいます。

 二元の世界は、争いの世界です。ひとときも休まることはありません。けれども、二元の世界の中、「こころ」が映し出した幻影の世界を生きている無明の我々には、「診断」というものが必要ですが、「解決」には一元しかありません。ここをくれぐれもみなさん、混同しないで欲しいということです。こころは、あなたが発達障害であるとか、健常とか、あらゆる言語ででも、単語でも、規定できません。占星術とは本来そこに気づかせるものなのです。易もタロットも、シンボライズされた世界の背後にある本当のメッセージは「こころの永遠性」であります。そしてそこにひとたび気が付くと、人生に怖いものはなくなっていく。がんと診断されようが、認知症だろうが、笑って死んでいけます。だって「こころ」は時空もない、生と死とで分けることもできない。宇宙でもない。私は占星術を通じてそこに至れて、幸福な気持ちです。ただ、まだどこか、「そうはわかっても“私”が無くなる怖さ」みたいなものはありますが、それでも昔ほどひどいネクロフォビア(死恐怖症)ではなくなりました。占いを学ぶ本当の意義は 「非二元」 に至ることなのです。

(終)

 

 

 

 

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