「占い」と「医学」の驚くべき類似性
ここでは、「占い」と「医学」の驚くべき類似性、相互関係について説明します。
占いと医学、実は「同根」であるという話
東洋には深遠なる漢方薬、針治療、鍼灸、気功などの神秘治療の伝統があります。なかでも「漢方薬」は、原料のほとんどが自然界由来の生薬ですから、一般的には安全性が高く体質改善に役立つものであり、非科学的なものだとは考えられていないでしょう。
ですが、漢方薬の起源がどこであるかと考えるとそれはなんと、非科学的極まりない「占い」です。しかも「占星術」から来ていると言ったらみなさんは驚くでしょうか。
中国でははるか大昔から天文学が盛んでした。中国の天文学は紀元前から世界でもっとも進んだレベルのものであり、天には5つの惑星があり、それらが太陽の周りを回っていることも、宇宙には星間ガスが充満していてそこから星が生まれてくることも、彗星が深宇宙から飛来してくるお客様であることも、なんと紀元前の昔から(どういう方法でかはわかりませんが)知っていたそうです。科学者や数学者といった人々はときどき、果てしない思索の果てにサマーディ、すなわち「深い瞑想状態」に入ってしまうことがあるらしく、ニュートンが万有引力を発見したのも、シュレーディンガーが量子生物学に行き着いたのも、ポール・ディラックがディラック方程式を導き出したのも実は、深い思索の果てに彼らが、ヨーガでいうサマーディの状態に入っていたためではないかと言われています。
実証科学とは違う、そうした瞑想的な直感で得た感触を、人類が封じ込めてきた世界——、それが「占い」です。特に易経と占星術はまさにそうした「瞑想による直感的な英知」が濃厚に封じ込められている世界です。そこから古代中国人が導き出したものが「陰陽五行」という概念です。
さて、占星術というと世間の人々は鼻でバカにして笑いますが、実は世界じゅう、どこの国のどんな文明でも、「惑星には人間に影響する力がある」と考えられてきました。これを否定した文明は一つもない、と言っても過言ではありません。それでいくと肉眼で観測できる「水星・金星・火星・木星・土星」には格別の力があるのです。
実際、天体観測をしてみると、星の出現パターンや輝き度合い、色味などから、各惑星の占星術的な意味付けがなされたのだろうということはわかります。土星は、「鎮星」と言いますが、確かに肉眼で見る土星は涼やかで、銀色の光を反射し、鎮静効果があるのを感じます。金星はあのまぶしいくらいのギラつきから、まばゆく輝く黄金を連想させます。それで「金」星、というのかも知れません。
さて、中国ではこの「5つの惑星」は、物質界・現象界であるこの世を作り出す根幹のエレメントであります。
物質世界はまず太極、と呼ばれる大きなおおもとから、男女昼夜天地などを分ける「陰陽」が現れ、それらがさらに3つ、8つ、9つと分離・合体を繰り返すうちに生まれてきた「最終劣化生成物」であり、私たちの地球や自然は、その「最終劣化生成物」のなれの果てで、惑星とはその物質次元界を支配する力の権化であり、よって物質次元界は5惑星に支配されている、と考えられてきました。
ここから、太極と陰陽のさまざまな反応による最終生成物 = すなわち物質は、すべて、5惑星のいずれかに属する、という概念が生まれます。五行ではこの世の万物に五行が当てはめられています。あらゆるものを5つのエレメントに所属させるのです。たとえばショウガ。ショウガは土のエレメントで、土星の植物です。ミカンの皮(陳皮)は火のエレメントで、火星の植物です。砂糖は土。肉類は金で、万物がそのようにどこかのエレメントに当てはめられています。
さらに五行には「相克・相生」という概念があり、たとえば「水」は「木」に吸われることで木を生じさせる、「木」は薪となり燃料になって「火」を生じさせる、燃え尽きた「火」は灰となり「土」になる、土は凝集して金属の「金」になる、金は冷えると「水」を生じる、という循環で、これが相生という関係。西洋占星術で言うと一方通行のトライン、セクステルという感覚でしょうか。
そして「相克」は、たとえば、「水」は「火」を消してしまうので相克、「金」は斧となって「木」を伐り倒すので相克、「土」は「水」を吸い取るので相克、「火」は「金」を溶かしてしまうので相克、とされます。これは西洋占星術でいうとオポジションに似た感覚のものです。
ここまでは、なんだかユニークな中学生が夏休みに思いついた単純な世界構図のようですが、東洋人のすごいところは、西洋ではなぜか「凶」とされるオポジション——、つまり、「相克」同士をブレンドして、新しい働きを産み出そうとしたところです。
5つの惑星に分けた万物を、手当たり次第に「ブレンドしてみよう」というのが漢方薬の始まりなのです。そこから、ある生薬とある生薬、ある鉱物とある生薬、ある灰とある鉱物をブレンドしたときに、どのような効果が得られるかというのを中国人は探求していきました。それがなんと現代でも医療に用いられている漢方薬なのです。だから漢方薬の源は占星術である、と言えるわけです。天に5惑星が輝いていなかったら、我々は「防風通聖散」や「抑肝散」、「葛根湯」など、今やだれでも知る漢方を飲む機会はなかったと言えるでしょう。ツムラ製薬は漢方薬メーカーとして有名ですが、そのツムラも、占星術が人類に現れていなければ、漢方薬市場を独占できていなかったはずです。
占いと医学の源が同じなら、では「健康」とは? 「開運」とは?
さて、このように、医学と占星術が同根である、という一例を見ましたが、では、そもそも「健康」とは何なのでしょうか?
医学が追い求める「健康」とは、占星術が追い求める「開運」と同じではないだろうか、というのが、ここで言いたいことなのです。
江戸時代、水野南北という大変な天才観相家がおりました。彼はなんと、占いを極めるために銭湯で背中を流す三助をやって人相・骨格を見定める修行をし、火葬場に出入りして死人の顔相を研究したり、一千人の無料鑑定を施したりしましたが、最終的に至った結論は 「運とは食である」 という結論です。 すなわち、病気をするような食生活をするから運が悪い、食を改めれば開運など何でもないほど簡単であるという思想です。これは恐るべき慧眼であるとは言えないでしょうか。
なぜなら、健康でなくては何の業績も残せないですし、子どもを設けることも、元気で働いて何かをこの世に成すこともできません。
「健康」 = 「開運」 ということが、水野南北が生涯かけて至った結論なのです。
さらに考察すると、「ものを食べる」ということはどういうことでしょうか。意外と精神的な悩みや悪さ、問題点が「食生活にすべて現れてしまう」とは言えないでしょうか。
たとえばキッチンドランカーの女性の多くが離婚経験者のシングルマザーである、という事実があります。離婚して精神的につらくなったのを、「酒」という食生活にすり替えている。ブラック企業で働く社員に糖尿病やうつが多いというのも、疲労のせいで何がまともな食生活なのかわからなくなっていて、いい加減なものを食べ、どうにもならないから病気になり、結果、カネや生活まで行き詰り、運まで悪くなっているとは言えないでしょうか。
私は生活のために介護福祉士という仕事をしていますが、介護の世界にいると、いかに我々の親世代や、我々働き盛りの食生活がでたらめなのかということを思い知らされます。老人施設に入っている入居者の9割以上が「糖尿病」なのです。糖尿病になるようなひどい食生活をしているから、アルツハイマーやがん、心不全、認知症になる。そして家族関係も大半めちゃくちゃです。モラハラや毒親、子ども依存、支配などが渦巻いていて、うらやましいと感じた家族は申し訳ないですが、私は一つも出会ったことがありません。つまりは、現代人はそれだけマトモじゃないのです。マトモじゃない親に育てられ、子どもがマトモになるわけありません。そうしてそんなマトモじゃない人々が社会を作っている。なんとも恐ろしいことです。
「開運」とは何でしょうか?
占星術鑑定を通して、私は常に考えています。みんなが追い求めている「開運」とは、いったい何なのか。いったいどうなれば「開運」で、「運が良い」人生だと言えるのだろう——。 これを考えてしまうと、どうしても輪廻転生思想に行きあたらざるを得なくなってしまうのです。
あの世がない、と考えると、人は、享楽的にどうしてもなってしまいます。
あの世はないし、死後の世界もないし、死んだらおしまいだ、と考えるから、「じゃあ今さえ楽しければいい」という思考にならないでしょうか。自殺する小中学生も、糖尿病になるほど酒にふけり、不倫とセックスででたらめな我々大人も、みんな「今さえよければそれでいい」という考えだから、たらふく飲食して性的に奔放になり、怒り任せに人を殺し、挙句の果てに親子関係で悩んだり、殺人や自殺を繰り返している。そんな風に見えてしまうのです。
あの世の概念を持たずに占いをすると、どうしても占いに尋ねることが「享楽的・即物的・物質的」になってしまいがちです。私が占いに心底あきれ、大嫌いになり、深く絶望し、そして激しく軽蔑するようになってしまった原因はそれです。あの世を信じていない人が占いをすると、どうしても問いかけの内容が「金・名誉・セックス・マウンティング・見栄」のオンパレードになってしまうのです。
だからこそ、「人はなぜ占うのか」という、根本の根本を、我々占い師は常に問い続けなくてはならないのです。ヨーガは教えます。人がこの世に生まれた理由も、人が成すべきことも、実はたった一つであると。
自己啓発系ブログや、某なんとか屋とか、キラキラ起業系、カウンセリング系ブログでは簡単にこれを 「人がこの世に生まれてくるのは幸せになるためだ」 と言います。けれども、その「幸せ」とは何でしょうか。たらふく飲み食いして毎晩ビフテキを食べ、他者に肩書や身分や収入でマウンティングして金持ちの男をつかまえ、高級外車を乗り回し、見せつけることでしょうか?? ひいこらいって汗水たらし地道に働いている人をばかにしながら、自分はノマドと投資で頭良く見せかけることでしょうか??
多くの開運ブログの言う「あなたは幸福になるために生まれてきたのです」の、《幸福》とは、案外そのような低俗なものではないでしょうか。これは健康健全なことでしょうか? すべての生きとし生けるものに優しい人生でしょうか? 糖尿病にならない生き方でしょうか?? こんな人生を目指していて、成功しても、最後は家族に見捨てられ、収入があるばっかりに老人介護施設に放り込まれ、自分がこれまでバカにしてきた低学歴のヘルパーに大便や小便のことで叱られ、ひどい屈辱を味わうのです。認知症になり、糖尿病が重症化して歩くこともままならなくなったら、「俺は教授だ」とか「弁護士だ」とか、「政治家だ」ということはなんの助けにもなりません。
それが「成功者」のなれの果てです。そんなものが、物質的なことを追い求めてきた人の末路なのです。介護福祉士なので本当に、こころからそう思います。
けれども、ヨーガや、宗教的な世界では、このようなものは「成功」でも「開運」でもないのです。
ヨーガは、人の「成功」とは、ヨーガを行じることができる環境・健康・メンタルが整うことこそが「開運」なのです。
だから商売が忙しくてヨーガを行じることができないなら、いくらカネと肩書きがあっても、それは「大変な不幸」なのです。反対に、学歴もない、仕事もない、家族もいない天涯孤独で、いくらでもヨーガができる人は「大変な福者」なのです。そしてヨーガの行は、糖尿病を遠ざけ脳に良いことばかりです。アーサナというポーズや呼吸法、断食、瞑想——。どれも健康長寿を極めてきた人々の多くが実践してきたことです。また、死の恐怖と生存の恐怖を克服するためには、避けて通ることができないことです。
そして実は、ヨーガに親しみ霊界的な、超自然的な力をその身とこころに注入すると、なんと「物質的なこと」は自然とついてくるようになるのです。最初から物質的な成功を目当てにしてはいけない。けれども、「神や宇宙と一つになりたい」ということを目指して精神探求をしていくうちに、自然とカネとモノとこころ、そして健康が揃うのです。ヨーガ聖典の集大成「ヨーガスートラ」には、そう明言されています。
水野南北という人が、まさにその通りの人生でした。天涯孤独で孤児だった彼は、精神的に荒れており、恐喝やゆすり、たかり、ばくちと飲酒の連続の人生でしたが、ある日とある大道易者に人相の悪いことを指摘され、余命がいくばくもないと占われてしまい、不安感を持ち始めます。そして易者に言われた通り食を慎み、1年間徹底して麦と大豆製品しか食べないという暮らしをしたあと、同じ易者のもとへ行って「どうだ!」と見せつけました。易者は南北の顔がずいぶん「福相」になっているのに腰を抜かさんばかりに驚いたと言われています。
この「易者」というのが諸説あるのですが、有力なのが「海常律師」という真言密教の高僧だったと言われています。お坊さんですから、ヨーガのことや清貧生活のことは、仏教を通じて知り抜いていたでしょうし、瞑想を実践していた大変な知恵者だったことは想像できます。とにかく、ヨーガ行法に似たことを水野南北は気づき、それを、占いを通じて人々に指導することで、文字の読み書きさえできない無学文盲青年から身を起こし、一流の感想かとして現代の我々ですら知るほどの大人物になったのでした。
占星術も、その他の占いも、最終的な願いは「精神的探求にまい進できる環境を整えること」です。占星術家を名乗るなら——、その他の占い師もそうですが——、万人みなすべての目標と幸福が、そこに帰結するということを強く胸に刻み、そして自分自身も実践できていなくてはいけません。しかし、ここまでの占い師がどれほどいるでしょうか。みな大抵本人が糖尿病・がん・うつ病その他、疾病のオンパレードで、いつも何かに不満を抱え、世を拗ねている人ばかりでしょう。そんな人に占いで見てもらいたくなどありません。
この世にうまれた究極の目標は、「精神的探求」 であり、それができないならどれだけカネがあろうが名声があろうが、意味ないのです。精神的探求と、神との合一こそがヨーガでは最上命題で、そういう土台からすべてを営んでいけば、家族の問題も健康もお金も、すべて解決します。
医療も、肉体だけでなく、「こころの健康・霊と精神の健康」まで含めた考え方をしなければ、決して肉体を直すことはできないでしょう。そしてこころを変えるには思想を変えなくてはいけません。何が正しくて何が間違っているのか。瞑想して、ときに書物を読み、考え続け求め続けて生きる中に、自然とすべてが整う。私はそのように考えているし、占星学を学びたい人に占星学よりも伝えなくてはいけないのは、そうしたことだと思っています。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません