星を使いこなす? 星を使えるようになる??

 はい、ということでどうも私です。占星術にちなんだ作家、というようなことをしてまして、最近では占い講師もしています。

 昔は占星術や占い学理全般、きちんと学ぶためには、都市伝説レベルでどこにいるのかわからないような、仙人に近いような存在の神秘主義者や導師を求め、運よく出会えたらそこで弟子入りし、誰もよまないようなほこりのかぶった本を読み、自分自身が次第に世間から忘れ去られていくという流れでしたが、情報化社会の昨今ではそうした、隠されてきた情報のようなものもカジュアル化されどんどん出ているので、占星術人口は爆発的に増えている印象です。

 しかし、神秘主義思想全般に言えることなのですが、神秘主義といいますのは、タロットカード9番「隠者」にも象徴されておりますように、もともとは世捨て人で、森の奥深く、誰もこないひっそりとした場所でこつこつ瞑想しながら学んでいくような、大衆人気主義の真逆を行くような体系でありまして、広まることは元来良しとされません。今、みなさんが馴染んでいる「ホロスコープ占星術」も、もともとはインドの山奥のサンガとか、寺院の奥深く、山里の少数民族や宗教的グループが保持していたもので、それが19世紀から20世紀にかけて、どんどん表に流出するようになってカジュアル化、ポップ化して現在に至っています。

 しかしホロスコープ占星術も本来は「宗教」でありまして、「宗教グループ」が神秘体験をするための思想的学びを積むための道具であって、我利我欲にまみれた一般人がまともに取り扱えるかというと、なかなか難しいところがあるのでありました。ですから、ホロスコープ占星術は今でも、高野山の密教僧が経典の一つとして学びます。ラマ僧も学ぶし、インドのヨーガ教団でも学ばれます。欧米のキリスト教神秘主義でも学びますが、それはネットにあふれるおカネ稼ぐ気まんまんのライターが垂れ流すことや、カジュアルポップな女性雑誌が煽るような、簡単なものではないのでございました。

 そうしたとき、最近の占星術のトレンドが「星を使う」という概念です。

 そういうコンセプトの占星術家さんが本当に多いですね。ネイタルを「使う」、月を「使う」、女性性の金星を「使う」などなど。こうした文言は、夢見がちで人生上手く行っていないアラサーには響くみたいで、月を使う講座とか、金星を使う講座、ハードアスペクトを使いこなす講座、などがものすごいたくさんあちこちで開催されていて、1回5~8万円、すごい強気の占星術家さんだと15万円、20万円の値段がつけられていることも。

 占いというものは価値がつけられませんから、売りたい人が「20万円だ」と思えば20万円です。たまに「〇〇さんのセッションは20万円で、酒井先生、どう思いますか、ひどくないですか」となぜだか私にクレーム言う方がおりますが、いや、そもそも値段などつけられない世界なのですから、先方が20万だと言えば20万だろうし、高いと思うなら行かなきゃいいだけです。安い 「から」 私は正しい、と主張するのもなんだか違う気がします。私のプロ鑑定家養成講座などは、講座のために海外から優れた洋書を取り寄せ、私が自ら翻訳し、私の鑑定経験も踏まえて、現実の鑑定現場でどうするか、ということを中心に話を進めていく、世にも稀な使える占星学講座である、と自負しておりますが、それでも現状 ¥6000-(税込み)です。20万円からすれば良心的、と言えるかも知れませんが、しかし値段はつけられないのです。私にとって占星学は仕事ではないので、これでおカネなど稼ぐ気はありません。でも、世間にそれが伝わらないのでしぶしぶ¥6000-としているだけで、個人的には値段などどうでもいいと思っています。

 さて、話がやや逸れましたが「星を使う」というのが、占星術のトレンドキーワードですが、これ、酒井日香的にはどう思うかということを話してみたいと思います。

 結論から言わせていただきますと、星を「使う」というこの「使う」が、どのレベルから出てくる言葉なのかによる、ということですね。

 星を使えることは使えます。ただ、これ難しいんですよ……。星を「使う」には、まず「当てる」ことから逃げてはいけないのです。最近の占星術は、なんだか「占いは当てモノじゃない」という論調で、占星術は当たらなくていい、悪い予言をするくらいなら当たらないほうがいい。怖がらせるなんて許せない! という感じで、とにかくマイルド路線。嘘でも詩吟でも妄想でもいいから、傷ついた心をやさしく、やさしーーく慰撫する、ということが占星術だと思い込んでいる人が多くて、そういう人は正直研鑽をないがしろにしがちなのです。「当てなくていい」としてしまうと、占いには研鑽も努力も要らなくなってしまうのです。

 しかし、占星術とは本来「当ててナンボ」の体系なのですね。占いが当たるとき、それは個人のちっぽけな「我利我欲」とは無関係なところで起こります。私がやっている「超次元占星術」を体験してもらえばわかりますが、土星が通過すると「嫌だ!」と思ってもシビアなことは起こりますし、亡くなった芸能人さんなども大抵土星が来るときに亡くなります。火星が来た時に深刻な大事故で九死に一生を得た読者もいますし、木星通過時にはマンションが思いがけない値段で売れた人もいます。

 つまり、「思い通りになどならない」のが運だ、ということなんです。もしも「星を使う」とか言って、超次元表ですべての土星期、一切のトラブルが起こりませんでした、未来永劫火星のサイクルのすべてで指を切りませんでした、足をぶつけませんでした、なんてことができるとしたら、その人はすでに仏陀やイエスや、宇宙創造神と同じレベルの人で、すでに一切のカルマの罠から解脱している人でしょう。

 けれども、「起るな!」と思ったって事故や事件は起こるんですよ。占星術とは、それを予測することに意義があるわけです。けれども「星を使う」なんていう考えを進めると、「不幸は未然に防げる」という、とんでもなく傲慢な、思い上がった考えになりはしないでしょうか。

 この「起るな!」と思ったって、起こってしまう出来事の中で、人間は「どうしよう、どうしたら苦しまなくて済むの?」と菩提心を起こすからこそ、運命には意味があるのです。神秘学のセオリーで占星術を学ぶと、確かに「ああ、これでは墜落で死ぬわ」「これでは業病になるのも無理ないわ」というケースがごろごろ見つかります。けれども、その「どうにもならない避けられない苦しみ」にであったとき、どうすればいいのか、どう考えればいいのかということは、占星術には答えが用意されていません。だから占星術師は、絶対に宗教の勉強をしなければダメです。

 不慮の事故で体の一部を失った、最愛の人を失った。病気になった、倒産したは、誰にでも起こります。それを「星を使いましょう」なんて、あたかもコントロールできるかのように吹聴する占星術師を見かけると、ずいぶん傲慢な人だなと思います。コントロールできないからみんな悩んでいるのでしょう。そして、コントロールできないからこそ、「神様助けてください!」と、ようやく神さまのおひざ元に縋ることができるのです。占星術の惑星たちは、イエスや、仏陀の手下なのです。人間にはどうにもならない苦しみを与えることで、宇宙の真理に気づいて欲しいからこそ、占星術の運行通りに嫌なこと(人間にとって)を起こしていくのです。

 けれども、それを予想する占いは「脅かして怖がらせて人を地獄に落とす悪い占い師」だと一時期は言われていました。私はそうは思いません。けっきょく、甘い言葉で慰撫して不都合なことは言わなければいい、優しく優しくしておけばいいというのは「慇懃無礼」なだけで、何もその人のためではありません。そして、占い師は、当てること、当てようとする技法の追求から逃げ始めると、とたんにウソつきになります。この世の不都合から人を遠ざけてウソをつくのが占星術師ではありません。本当のことを教えてやるのが占星術師です。私はそう思っていますね。だから的中の技法を高めるためには、海外の優れた本もどんどん輸入しますし、使えることは取り入れていきたいと思います。それは手間もヒマもかかり、勇気が必要です。「星を使う」なんて文言自体が、なんだかすごい傲慢だなと感じてしまいますね。

 私の占星術も最終的には「星を使う」ことを目標にしてはおりますが、それはその辺の占星術家の方が安易にいうようなカジュアルなことではなく、まさに占星術の究極奥義みたいなものでして、これは一朝一夕でできるものではないのです。少なくとも10年はかかる。だいたい平均するともっと、20年かかる場合もある。それくらい長いスパンで考えなくちゃいけないレベルの、とてつもないことなのに、あたかも「私の講座を受ければ1日で身に付きます」みたいな、ウソみたいなことを言っているので「しょーもないな~」と思ってしまう、という、そういうことです。

 つまり、「星を使う」ことはできるが、それは「よほど」だ、ということです。瞑想と学びの訓練がいるのです。まずなにより星、という、仏陀やイエスの直属の幹部クラスの連中に、「お前のほうが俺たちより上だ」と認めさせなくちゃなりません。あんな、地球の11倍もの大質量をもつ木星に、こんなちっぽけな、地球の表面ではいつくばっているコケ同然の我々が、「あなたのほうが私(木星)より上だ!!」と認めさせなくちゃならないのですよ。月も太陽も海王星も土星もそうです。みんなあなたなんかよりはるかにでかい。強敵です。月でさえ、勝てると思いますか???

 そのレベルの人なら「星を使え」ます。惑星や神の世界というのは、ヤクザ組織とまったく一緒なのです。ヤクザは、自分よりこいつのほうが漢だ!と感服すれば、序列がかわります。今まで一番下っ端だったヤツが、アニィになるわけですね。すると、組長(宇宙創造神レベル)に話が行き、「あいつは一目置けるヤツだから守ってやれ」と惑星たちに命じるようになる。組長の命令を受けた木星や海王星は、今やアニィとなった我々の言うことを聞くしかないわけです。占星術と言うのはそういうことです。このレベルの人であれば「星を使う」なんてことはわけないです。惑星のほうが子分なのですから。

 でもどうでしょうか、大半の占星術師は「星に使われて」いるのではありませんか??

 みんな、「なぜこんな人生なの」「なぜこんなに苦しまなくちゃいけないの」「なぜ生まれてなんか来たの」と言って暮らしていますよね。星なんか使えてないじゃないですか(笑)。みんな星の呪縛にがんじがらめです。本当に「星を使う」と思っているなら、現状いただいたものに満足していてしかるべきです。けれども、みんな満足していない。やはりなにか「今より幸福」「今よりおカネ」「今より輝く人より抜きんでた私」「自己実現」みたいなことばかりを追い求めている。それで、今の自分ではダメだ、ダメだ、なにかもっとすごくならなくちゃと思って、ありもしないことにおカネを使う。それこそ20万円の講座やセミナーなどは、そうした人たちを上手くカモにして儲けようという姿勢の表れでしょう。

 ヤクザは、そうした、「人間の弱さ」につけこんで支配するのです。だから人気者になりたいという「弱み」を持ったひとがたーーーくさんいる「芸能プロ」とか、「出版社」とか、「IT企業」はヤクザだらけじゃないですか(笑)。弱み = ヤクザの資金源 です。惑星どもはレベルの低い側面では、そうしたヤクザと同じ波長の部分があります。占星術師の弱みに付け込んで、占星術師の想念のエネルギーをエサに生きている。低俗な、暗いくらぁ~い「弱みエネルギー」を吸って、暗い想念を吐き出すんです。だから大抵の占い師は人生どちらかというと負け犬ですよね。ダメ人間ばっかりですよ。ヤクザの一番みじめな下っ端なのに、そんな自分にさえ気づけない連中なのですから、当然と言えば当然かもしれません。

 もう一つ注意しなくてはいけないのが、「使う」という言葉を、どういうイメージでその占星術師が言っているのかということを見極めることです。

 大抵は、あまり深く考えていない人がほとんどだと感じますが、「使う」という言葉はちょっと注意しなくちゃいけないのです。大抵の占星術家が「星を使う」というとき、そこには「自己都合で星を思い通りにさせる」という文脈が含まれてはいませんか??

 もしも星を使って望み通りの人生を生きる! とか、星を使ってアーティストデビューする!! とか、星を使って他人に見せつけて自己実現して稼ぐ、みたいな文脈で「星を使う」などと言っているのだとしたら、それはまぁ片腹痛いですわー…の世界ですね。でも、「星を使って思い通りのわたしを生きる」みたいな講座ってどうしてもそういう文脈を感じてしまいます。「思い通りに」なんて、できるわけありません。もしも「思い通り」ということであるのであれば、「思いそのものの罠から抜けた状態」……、つまり、究極の「悟り」を得た人でなければ、そんな真似はできるはずないのです。

 ということで、「ケン・ウィルバー」を取り上げたいと思います。

 

 現代の「トランスパーソナル心理学」におけるところの巨人、「ティール組織」や「インテグラル心理学」で知られる哲学者、心理学者「ケン・ウィルバー」です。酒井さんはこの哲学に触れたとき「すごい!」と心から思いまして、占星術をケン・ウィルバーの思想と併せて紹介するようにしています。

 ウィルバーは、人間の「心理的発達」には4つの段階がある、と言うのです。

 その「4つの段階」とは――。

 上に掲げた図表の通り、まず第一に影/ペルソナが支配的な「仮面のレベル」、その次に「自我のレベル」、その次に「全有機体レベル」、最後が「統一意識」です。

人間のこころの成長段階

第一段階 【仮面レベル】(影/ペルソナ)

第二段階 【自我レベル】(ケンタウロスレベル)

第三段階 【全有機体レベル】

第四段階 【統一意識レベル】

 すべての人間は、この4つの成長段階を通ることができる、とウィルバーは言います。一切の占い、カウンセリングも、この成長段階のそれぞれのどこかに所属します。ただし、人間には有限なる時間制限があるために、とうとう第四階層に触れずして死んだ、ということも往々にしてあります。ウィルバーは、現代人の大半が「第三階層に届くか届かないか」のレベルのままタイムアップして死んでいくと言います。

 そして、第一段階とか、第二段階のレベルにある人や、心理的なセラピー、占い、悩み相談などは、その下の第三段階や第四段階を無いものとして無視するか、会話に昇らせることを禁忌とします。しかし、内側から現れる衝動や強い思いは、第四段階がもっとも激しい(第四階層から万物は生まれてくる)ため、第一段階や第二段階あたりのセラピーのままでいると、それはセラピー自体がとてつもない心理的抑圧を産み、人間を苦しみのどん底に突き落とす、というのが、ケン・ウィルバーのセラピー論の特徴です。

 実は、私と占星術とのかかわりが、まさにこの「4つの段階」の通りに進んでいったのでした。第四階層的な、根源的な生死の悩みから占星術に入ったのに、与えられる情報は第一階層、第二階層レベルのものしかなく、どの占い師も第二階層レベルのくだらない話しかしません。それでもう生きるか死ぬか、くそ占星術師どもなどいっそのことぶっ殺して死刑になるかまで悩んだのです。けれども、この「葛藤」こそが人間を真理に至らせる、もっとも素晴らしい力だとウィルバーは言います。

 さて、せっかくですから、このそれぞれの段階を軽く解説しましょう。

 第一段階のセラピーがどういうものかというと、お母さんと子どもですね。「お兄ちゃんなんだから我慢しなさい」と言って、弟におもちゃを譲る。するとお母さんがあとで褒めてくれたり、くれなかったりして、不満を抱えたり過度に依存したりするレベルです。行動はすべて評価されてしかるべき世界であり、子どもは母と言うものは、無条件で自分を愛してくれるべき存在であると思い込んでいますので、その期待通りの母であれば「良い母」、期待通りでないなら「悪い母」です。一切の対人関係が自分を満たすか、満たさないかで良い・悪いに選別されます。

 けれども、そうするとある程度の年齢、あるいは大人になってからでも、環境次第で、そういうストレートさは子供らしくていいのですが、やがてそういうストレートな自分の理想を周囲に求めることは、恥ずかしいことだと感じるようになります。母に甘え切るのを見た近所の人に「もう〇〇ちゃんも〇歳でしょ。いつまでもそれじゃ恥ずかしいよ」とか、同級生の子に「そんなのカッコ悪いぞ」と言われることで、なんとなく「これは甘え」「これは甘えじゃない」と区別していきます。

 この「区別」が始まると、幼児はいよいよ第二段階、「自我のレベル」になっていきますね。第一段階は依然としてあります。根強くあるけれども、それはストレートに表出するとカッコ悪い、としてさげすまれてしまう。なのでどうにか、そうした、まったくの自分都合の事柄をどうにか、表層だけ美しく取り繕っていきます。本当は母親に誰よりも抱きしめて欲しい。自分だけのママでいて欲しい。でもそれを表出すると「お兄ちゃんなのに」と言われ、母親にすれば「弟の育児に協力しない悪いお兄ちゃん」になりかねません。なので彼は、甘えたいという欲求を隠して、どうにか隠したまま、母親だったり、世間だったり、教師だったりに褒められようとする。周囲の大人や人間関係を操って、自分の願望を満たそうとする。

 この第二段階で強く表れるのが「ケンタウルス的発想」だとウィルバーは言うのです。

 大人から愛され、結果として人気や信頼、という、自分の欲望をかなえる魔力を手に入れるためには、愛されるための要件を満たす自分でなければなりません。このレベルでは、身体は、「私のために何でも言うことを聞き、私に奉仕する馬」です。私は、体と言う馬に乗っているだけ。体はわたしのモノだから、この体をどうしようとも私の勝手である、という発想です。

 若い人はこの感覚が「受験勉強」や「美容整形」「資格取得」などなどに向かいやすい。老人ならセルフネグレクトです。「体は俺のものだからどうなろうがお前の知ったこっちゃない」とか、「顔さえ美人なら人気も信頼も得られるのに」と考えて整形中毒になったり、集中力を出し続けるために麻薬を頼ったり。

 さきほどの「星を使う」という言葉――。どうでしょうか――。この第一段階、第二段階の匂いがしませんか?? つまり「使う」という時点で、星が自分の言うことを聞くはず、聞くべき、という、まったく自分勝手な、赤ちゃんのようなむき出しの欲望がそこに隠されてはいませんか?? ということです。

 そう書くと「じゃあ酒井さんにはそうした欲望はないのですね」とか「欲の否定はいけないことです」とか言われそうですけれども、違います。否定も肯定もしないのです。定義するなということです。言葉にしたとたんそれはすべてが「陳腐」です。

 「星を使う」ということを、もう人生やり尽くした90歳のおばあちゃんが言うなら説得力があるが、30やそこらの、自己実現したくて、有名になりたくて、起業して稼ぎたくてウズウズしているアンタに言われたくないよ、ということですね。だいたいの占星術師が、美容だの資格だの稼ぎだのにどっぷり浸りきって、浸りきった上で「星を使いましょう」などと寝ぼけたことを抜かしているのがちょっと違和感だなと。そういう人たちがどうしても、ウィルバーの心理学でいう「ケンタウロスレベル」に見えてしまうのです。

 そうして、第一段階、第二段階の占いやセラピーでは、それより進んだ第三・第四階層については語ろうとしないか、無視する、禁忌にさえしてしまうということです。

 これもよく見かけます。「当占いは一切の宗教とは無関係です」とうたってあったりしますが、これこそが第三・第四階層を無視する、というウィルバーの解説の通りの行為なのです。一般的な悩み相談においても、生死のことは語りにくいです。東日本大震災のとき、傾聴ボランティアや心理療法家がたくさん現地入りしましたが、住民の方が直面していたのは「なぜ生き何故死ぬのか」「なぜ最愛の家族が死んだのか」という、第四階層の問いだったわけですが、それを口に出すことは容易ではありませんでした。そんなことをカウンセラーに言っても、うんうん、と頷かれるだけで、何も答えをくれない(無視する)か、自殺でもするのではと恐れられて、「元気を出せ!(ごまかし)」にすり替えられるだけだったでしょう。

 でも、霊能者みたいな人であれば、そういうことを言っていいわけです。霊能者は少なくとも第三階層、第四階層の前提の中を行きている人々ですから。そういうわけで、実は東日本大震災のとき、大活躍したのは宗教家だと言われています。

 もう一度図表を見てみましょう。

 これで行くと、実はもっともセラピーとして大人であるのは「宗教」なのです。

 ウィルバーは、もう一つ重要なことを言っています。一切の不幸と苦しみの原因とは「線引き」であると。

 占星術などはまさに「線引き」だらけです。なんとか座、というものだってあれも、人間が勝手に天に引いた人間の世界の国境です。「優れた私」「劣ったあの子」劣っているとみなされたくないから必死に勉強する、あるいは必死にダイエットして美容を磨く。訓練して才能を磨く。これらも根底には「線引き」から来るものです。

 ウィルバーは、この「線引きなき世界」は、宗教思想の中にしか見いだせないと言っているのです。占星術とは、この一切の「線引き」という「差別のこころ」「醜いこころ」を、学ぶ者にこれでもか! と見せる鏡です。占星術でなんとか座だ、何ハウスだと言っているその瞬間からあなたのどうしようもない悩みがもう始まっているということです。

 アフリカの地図をぜひ見てください。アフリカ大陸の国々は19世紀に、イギリス・スペイン・フランスといった列強によって勝手に国境線が引かれ、同じルーツの部族同士仲良くやっていたのに、「線引き」したことでこっちは〇〇国、あっちは△△国、という意識を植え付けられ、そこに資金を投入して部族間闘争を煽ったことであんなに血みどろの大陸になってしまいました。アフリカの子ども = 飢えてかわいそうな子ども という洗脳がありますが、それは「線引き」したから起こったことなのです。それにひきかえ、日本の子どもは恵まれているわねと自宅で笑いながら、自分の子どもにはいい大学に行きなさい、よい就職先にしなさい、弱い人間を踏み越えてでもステータスを身に着けなさい、と「戦争」をけしかけているのです。そしてそれがどうしたら叶うかといって、占星術に手を出す。まるで獣以下の人間性でしょう。

 星占いでああだこうだいって、他人と自分を決めつけて差別している人間には、「戦争反対!」などという権利はないと思っています。どの口がいってんだと。お前こそ差別の権化じゃないか、不幸発生器じゃないかと。その醜さをとことん見せて、我が心がいかに汚れているかを見せつけるために占星学は存在しています。そうしてほとほと、自分に「嫌気」を起こさせるのです。その「嫌気」が、人を第四階層――、統一意識、という究極へ導くのです。それがウィルバーの思想であり、占星術が連綿と続いてきた本当の利用価値です。統一意識では、「宇宙 即 我」の境地であり、そこにはもはや「なんとか座の私」も「第何番ハウスに入る月」もへったくれもありません。宇宙と我との間に線引きがないので、もう一切の「規定」が消え失せてしまうのです。そしてこの第四階層にこそ、本当の幸福があります。

 ただ、この「宇宙 即 我」「線引きなき世界」へ降り、本当に誰とももう自分を比べることもなく、誰とも戦争せず、心豊かに暮らす段階になるためには、「全有機体レベル」の考えにだんだん、なっていかないとなりません。ケンタウロスから第三段階、「全有機体レベル」に移行するときが、大人にとって幼児期の自我形成以上に苦しいことです。

 この「ケンタウルス」から「全有機体」へのスライドは、自殺を考えるとよくわかります。

 自殺をしたがる人、自殺する人は、「肉体は俺のもの」と考えているのです。俺の道具、俺のおもちゃだと。俺の自動車なんだから、その自動車がポンコツになり、もう動かないなら安楽死でいいじゃないか、もう殺せばいいじゃないか、風呂も入る必要ない。食事も食べる必要ない。排泄などもお前の手になどかかるものか、と思っています。ケンタウルスのレベルです。

 けれども、自殺は、その人だけの問題ではありませんよね。自殺をすれば遺体を片付ける人がいます。自殺した場所を所有するオーナーにも迷惑がかかります。なにより子や孫や配偶者は深刻に傷つくわけです。家族の心をないがしろにするのです。

 そう考えると「俺の体」は「俺のものではない」のです。そして「勝手に産みやがって」と親を憎んだところで、親があなたを産み出したわけではないのです。この宇宙は、始まったビッグバンのときすでに、「あなたが生まれることを企図していた」わけですから、産んでくれるなと言ったって無理。そもそも人がセックスで生まれて来るなら、あなたの両親のそのまた両親にも、そのまた先の両親にも、ずーーーっと遠い先祖にも性欲があり、人間の先祖である猿や両生類でさえ性欲があるのですから、やはり宇宙創成のときからあなたはいたことになります。

 また、食べ物もそうです。鶏肉や魚が目の前にある。食べてしまう前、それはただの肉や魚です。でもお腹に入ってしまったら?? 1分前には、「非自己」と言えたかもしれない肉や魚が、食べて飲み込んでしまった時点で、それは「あなたではない」と言えるでしょうか?

 このように、一切はどこまでもつながっていくのです。肉体や能力も、けっして「俺のモノ」ではありません。こういう感覚に意識が広がることをウィルバーは「第三段階・全有機体レベル」と呼んでいます。

 ここまでくると、ホロスコープの意味はかなり変わるのではないでしょうか。

 それまでは、ホロスコープを見て、「私の才能って?」「私の持ち味は??」と気にしていましたが、いまや「この宇宙は一切がつながっている」「星空には本来国境も区切りも星座もハウスもない」とわかってくるのです。

 このレベルの人が「星を使う」というとき、それはつまらない「ホロスコープによる私がたり」ではなく、「宇宙一切との感応」であるわけです。特定の月だけとつながるとか、金星だけとむすばれて素敵な彼氏をゲットするとか、才能を評価されるとか、現世利益ではなく、月も金星も太陽系さえ超え、この銀河全部、銀河団、超銀河団、ブラックホールとも、すべてと感応のセッションができるようになります。ちっぽけな太陽系なんていう意識から飛び越えてしまう。抜け出てしまう。そうした人にもはや「ホロスコープ」などなんの意味もなさないのです。そしてここまでくると第四段階、ウィルバーが「統一意識」と呼ぶ、もはや生死さえ超えた、永遠の満足の世界と出会えることになります。

 そして、せめて第三段階の最初くらいまでは来ないと、どちらにしろ現世利益など見込めるはずがないのです。なぜならおカネや地位や名誉というものは、それ自体がどうでもいい取るに足らないことではありますが、そうしたものが得られる人の特徴として「他人のために奉仕した」ということが挙げられるからです。

 他人のためにこの身を捧げ、他人のために人生の時間の大部分を使い、自分が楽しむよりも他人に奉仕したからこそ、おカネや地位や身分がついてくるんです。まさに「全有機体」として人間同士が、「おカネ」というエネルギーで結ばれているからこその現象であります。

 だから「星を使う」という言葉に、レベルがあるということは覚えておいて欲しいのです。そしてそれは「ホロスコープそのものに興味がなくなる」ことも同時に示しているのです。

 占星術のホロスコープには、このように最初から意味はありません。しかし、第一段階から第四段階に向けて、自分の精神と心がどの成長段階にいるのかということは、「ホロスコープを最終的に気にしなくなる修行」をすることでわかるのです。そのための道具です。非常に逆説的ですが、占星学の学びとは「占星術が気にならなくなるための学び」であるのです。

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