サビアン占星術について。

 

 よう、元気か? 俺は占い師の郷原悟だ。よろしくな!

 最近酒井は、自分が描いた占星術小説の主人公の俺、郷原悟に語らせるのがいいみたいだ。自分の名前で記事を書くより、俺に語らせたほうがシャープですっきりするらしい。

 

 ということで、今日は「サビアン占星術」について。

 ここ最近、明暗塾の大先輩である占星術家、工藤明彦先生とメールのやりとりをさせていただいているのだが、ふと、工藤先生とのやりとりの中で松村潔さんの 「サビアン占星術」 の話になった。

 工藤先生は「的中する占星学」を求め、研鑽しておられる占星家なので、曖昧模糊として散文のようなサビアン占星術には異議がおありになるらしい。正直、半分はとてもわかる。酒井は工藤先生と同じエバーティンの占星学を学び、鑑定もうっかり4000人分くらいしてしまい(涙)、自分では工藤先生のように 「それなりに当たる占星術」をしていたつもりだった。

 

 ただ、もう半分ではサビアン占星術の言いたいことはわかるのだ。正確に言うと、「サビアンの世界観については髪の毛一ミリも同意できない」けれども、「サビアン占星術を通して、直居慧さんや松村潔さんが伝えたかったこと」 はよーーーくわかる、と言えばいいだろうか。政治で言えば総論反対、各論賛成、みたいなことだ。

 

 占星術を学んでいくと、心ある人ならば必ず壁にぶち当たる。それは、「星の影響がどれくらいか?」をはかるのが大変むづかしいということだ。

 占星術は基本的に二枚舌、ダブルバインドである。これは以前にも書いたが、占星術のベースの考え方として、A我々は誕生のときの惑星配置を選んで生まれてきた」という前提条件と、B、惑星の影響はある」という前提条件のふたつによって占星術は営まれているわけだが、このABでは、主体と客体がみごとに入れ替わってしまうのだ。前提条件Aのとき、惑星配置やホロスコープを選ぶ「主体」はわたし、で、選ばれる「客体」は惑星やホロスコープのほうだ。前提条件Bのとき、影響する「主体」は惑星で、影響される客体は「わたし」になる。見事にダブルバインドだ。

 主体と客体が入れ替わるテーゼが二つ、同時に並び立つ、ということは、哲学の証明にはならない。これでは経営者が同時にお客である、と言っているようなものだ。むしろ大矛盾なのであり、とんでもないペテンなのである。ペテンのそしりをまぬかれたければ、どちらか一つに決めてもらうしかない。

 

 このダブルバインドの中に、占星術を学ぶものは必ず取り込まれてゆくのだ。酒井はA、の答えが正しい、B、は間違っているのだ、とわかるまで15年の歳月を要した。

 

 学ぶ人の皆が、酒井のように執念深いわけではないだろう。けっきょくよくわからないまま、もやもやした気持ちを引きずりながら毎日星を見ている人、やはりこんなものはよくないと考え占星術から手を引く人、それはさまざまだろうと思う。

 そうした空気の中、サビアン占星術は現れた。酒井はこの占星術が世に出たとき、「ああ、占星術は終わったな」と思った。サビアンはチャネリング(霊視霊感)で得られた散文が360個あって、それがおひつじ座0度(黄経0度)からうお座29度(黄経359度)まで、すべてにあてがわれているのだ。そして何かの星や感受点があれば、その感受点の度数を見て、そのサビアンシンボルを読めばいいという。

 

 うーん……。星座はまだいいのかも知れない。12星座で、おうし座だからこんな意味だ、というようなことはまだ、「伝承」としていい繋がれてきた長い時間があるのだろうけれど、どこの馬の骨とも知れないシャーマンが降ろした散文を信じろ、と言われてもそれは無理だ。特に我々のようにエバーティンメソッドを学んだ者だと、何もサビアンなどに手を出さなくても当たる占星術はできる。占星術は当たらなくては意味がない。工藤先生が眉を潜める理由も大変よくわかる。

 

 ところが、だ。いかにエバーティンメソッドが「当たる」からとはいえ、やはり前提条件を二つぶらさげたまま占いを続けることはできないのだ。案の定酒井は、当たる占星術を知っていたはずなのに15年間も苦しんだ。お釈迦様が占星術の謎を2500年前にすでに解いてくれてあると知らなかったら、今頃は苦しさのあまりどこかでのたれ死にしていたかもしれない。

 

 同じ道を松村潔さんや、直居慧さんも通り、酒井と同じように苦しんだのだとしたら――。

 酒井は、彼らがサビアン占星術を世に出した気持ちがとてもよくわかるのである。

 

 つまり、松村潔さんも直居慧さんも確信犯なのだ。わかっていて敢えて、星ヲタどもに「こんなのもとから実態なんか何もない世界なんだから、好きに読めばいいんだよ」と言うために、おみくじみたいなサビアンでいいや、という風にしてしまったのではないだろうか。事実、松村潔さんではない、元祖サビアン占星術の紹介者、直居慧さんは、著書の中でそのようなことをお書きになっている。こちらの本を参照。

 

 ただ、松村潔さんは直居慧さんと違ってやりすぎ、いいすぎ、しがみつきすぎ、というか、そういう、「占星術なんて信じるんじゃねぇよ」という思いで内心、やっているなら、それはご本人にとって自分自身にさえウソをついている、ということになるのだから、それならそれで直居さんのように、最初から「僕は占星術はおかしいと思っている」と言ってくれれば、こちらもこれほど苦しまずに済んだ。その点で、松村さんもはやりどこかおかしい人なのかもしれないし、「よくもあたしを苦しめてくれたな!」と、苦言の一つもいいたくなるものだ(笑)。

 

 さて、しかし、「惑星の力の正体」については、占星術の側でなんら意見がまとまっていない。直居慧さんだけが、それを問題だ、といって、自著の中で警鐘を鳴らしていた。今日、ツイッター読者から直居慧さんの話が出たので、もう一度引っ張りだして直居さんの書籍を見てみたが、今なら酒井は直居慧さんが、「今の占星術はダメだ」とおっしゃっていた意味がとてもとてもわかる。ベースとなる思想哲学がダブルバインドだから、軸がブレブレで、学ぶほうが必ず自己撞着を引き起こす構造になっているのである。

 

 酒井はだから、占星術の「思想哲学」を、きちんと読者に示せる人でありたいと思うし、そのためには占星術家よりもさらに上回る広範な知識を得なければならない。なんとも因果な人生である。

 

 さて、そんな酒井だが、エバーティンメソッドは否定できないのだ。

 

 なぜなら、占星術の「自己撞着」から抜け出すためには、「ある程度占星術が当たらなければならない」からである。当たるからこそ、「惑星の力」を否定できないのだし、仏典では惑星の力は絶対にあると強く信じなさい、と、パーリ経典で言っている。キリスト教も三位一体。聖霊の力、天使の力として、惑星には現実に物理現象を起こす力があるとしている。これを信じられないものは救いにあずかれないのだ。仏教もヒンドゥーもイスラームも、キリスト教も、そこだけは本当に、みごとに一致しているのである。

 

 つまり、「惑星の力なんてどうせ気のせいなんだからサビアンでいいじゃん」では、ダメなのだ。タロットでいいじゃん、おみくじでいいじゃん、どうせ中身なにもないんだから、では、ダメなのだ。サビアン自体が占星術を否定していることになるのである。

 

 そうじゃない。酒井は、自分に関わるお客さんにはやはり幸福になって欲しい。仏典にもキリスト教の聖書にも「聖霊の物理的な力を信じよ。それが救済である」と明確に書かれているのだから、惑星の力の恐ろしさをお客さんに見せないわけにいかないのだ。占星術が当たって初めて、お客さんは、「木星は本当に生きているのだ!!」とわかるからである。木星の天使が自分の傍に、他の惑星の天使もいて、本当に側にいるのだと、わからせない限りお客さんに救いは来ない。

 

 したがって、やはり「当てる占星術」でなければダメなのだ。当てることから逃げ始めたとたん、もともと褒められたものではない占星術は、もっともっと醜悪になる。当たる占星術をするから、天界の存在も「まぁ、よし」に思ってくれるところはある。当たる占星術をしてやることで、お客が自分たちの存在に気づいてくれれば、そのぶんだけそのお客も、占星術師も幸福になるからだ。

 

 そこでさらに「当たる仕組み」や「哲学」や、「受け止め方」を深めてもらえれば、天・地・人すべてに対して円満である。やはり占星術は 「当ててナンボ」 で、占い師はそこから絶対に逃げてはいけない。たとえ郷原悟のように血みどろになろうとも(笑)。

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