第二十三話 CHAPTER8、調印(1)

 志垣老人の、深刻で、独特な悩みというのは、こういった内容である。志垣智成は長年、信仰に生きてきた人間だ。修験道を学び、大日如来を本尊とあがめ、宗教を日々実践して生きてきた。その宗教的カリスマで人を動かし、いつの間にか全国に信徒を50万人も抱える、一大宗教団体の長となった男だ。

 ビジネスのほうでも、運輸業、通信業を商いし、全国と海外に支店、出張所を1200も抱え、子会社や系列などグループ企業を40社従えた一大コンツェルンを構築している。その個人資産は1000億を越えるとも噂されていて、この国の政財界におけるフィクサーの一人であることは、間違いない男であった。

 しかし、志垣をここまでの大金持ちにさせたのは、皮肉なことに信仰心だったのだ。志垣は、神や仏に会いたくて会いたくて、さまざまなことを試みてきた人生なのである。あるときは、野山に篭って滝行や荒行などの修行をしたり、またあるときは性的な秘儀を試したりなど、さまざまなことをやってきた。

 ところが神の声も、仏の声も、志垣にはまるで聞こえなかったのだ。次第に苛立った志垣は、ならば悪に染まれば、きっと自分に仏罰ぶつばちを当ててくださるに違いない、そうすれば、それが神仏の存在証明になると考えて、さんざ薄汚い仕事を請け負ってきた。時には殺しですら引き受けたという噂まであるほどだ。まさに、神秘に執りつかれ、見えない世界だけを探求してきた狂人なのである。皮肉なことにその神仏への執着が、志垣の個人資産を1000億円にまで押し上げたのだ。

「しかし郷原さん……。私は、1000億円すべて払っても、どうしても神の神秘に触れたいのです。こんなに求道してきたのに、とうとう私は、神を体感することが出来なかった。妙玄なる霊界が、もしかしたら存在しないかも知れない、そう考えると私は……。私の今まで歩んで来た道は……。息を引き取ったら真っ暗な世界、自分が消滅する世界など、あってはならないのです。それだけが、どうしても恐ろしい……。恐ろしい……!!」

 志垣の肩も、唇も、微かに震えていた。

(死してなお、不滅を願うだと……? どこまで欲が果てしないんだ。究極の生存欲だな……。ある意味、無性に醜い……)

 郷原は、精一杯柔和な顔を浮かべて、志垣の言葉を聞いていた。

「そんなとき、郷原さんの噂を聞きました。郷原さんの、命がけの占いゲームのことを――。あなたが死に怯えるその瞬間、未来を現すという神の言葉……。それをぜひ体感してみたいっ……!! そのためならばこの志垣、いくらでもお支払いいたします。ねぇ、寺本さん、こ、この通り……! 私にどうか、神や霊界や、目に見えない神秘を、信じさせて欲しいのです……!」

(いくらでもお支払いいたします――??)

 その言葉が、胸の中にリフレインして、寺本厳と、城乃内の瞳には、まだまだ死が遠い者特有の、やましい光が浮かんでいた。

 寺本厳が、静かに紫煙を吐き出しながら、郷原に言った。

「まぁ、この通り志垣会長が直々に、頭を下げているんだ。どうだ一つ、勝負してやってはもらえんだろうか、なぁ?郷原よ」

「一つだけ、会長にお聞きしたいことがあります」

「なんだね? 郷原さん……」

「会長と私が勝負して、私が勝てば、会長は神を信じられるのですか? それとも、私が負けたときに信じるのですか?それをぜひ、お教え願いたいですね……」

 志垣は、視線を斜め前へ投げると、口元に手を当てて、しばし考えた。確かにとても素直な質問である。郷原が勝てば信じるのか、負ければ信じるのか。ここを明確にしなければ話が進まない。

「ふ、ふふふ……。確かに……。ちなみに、どんな勝負を私としてくださるので?それをまず聞いてから、今の郷原さんの質問に、答えようじゃありませんか」

 城乃内が、話の流れで、ブリーフケースから封筒を取り出した。

「志垣会長は、ウチの店へ遊びにいらっしゃるのは、今回が始めてですか?」

「ええ。そうですね。この通りの年寄りですから、クラブなどという、若者が行くような場所はちょっと……」

「フ……。それはご心配なく。ウチの店は、表向きは子どものクラブですが、その下にはちゃんと、アダルトが遊べる場所があるんです。郷原との勝負はそこで……。ただし、入会金を別途、頂く決まりになっておりまして。まずはご入会手続きをお願いします」

 そういうと城乃内は、ペンと簡単な書類を、志垣老人の前に差し出した。城乃内貴章は、郷原と同じく寺本組の中では、川嶋貢の一派に属している。そしてその川嶋から援助を受けて、六本木で「デスティニー」というクラブを経営しているのだった。

 そのデスティニーの地下には、踊り戯れるガキどもやホスト、外国人などを寄せ付けない、薄暗いホールが広がっていて、ガキどもはそこを「裏デス」と呼ぶ。裏のデスティニーという意味だ。

「裏デス」の入会金は1年間有効で、ひと口100万円。そのうえ入会希望者はいろいろと、城乃内たちの審査を受ける。年収は最低1500万円以上、それに加えて、秘密を守れる者かどうか。

 入り口を入るとすぐ、すすけたビリヤード台と、小さなバーカウンター、ルーレット台などが置かれていた。そこでは高レートのブラックジャックやバカラなどの他にも、興奮剤を注入した犬猫の殺し合い、ゴキブリレースなどが行われていて、普段の営業はどちらかというとそれがメインである。

 その奥には、ロープの張られたリングのような、安っぽい造りの舞台が一つ。このコーナーは「裏デス」が月に一度、イベントを行うための舞台であった。

 プロレスラーや、元ボクサーなどを集めて、デスマッチ賭博をしたり、売れなくなった歌手やモデルに辱めを受けさせたりなど、あざけりと悪趣味が支配する、堕落のジャングルだ。そこで行われる数々の勝負の行方を、郷原が占って、客たちと賭けをするようになったのが、占い賭博の始まりであった。

 城乃内は、封筒からさらに、2枚の写真を取り出すと、裏デスの会員規約書に老眼鏡で眼を通している志垣老人に差し出した。

「今月のウチのイベントは、このカードです」

 志垣は、会員規約書にサインをしてテーブルに置くと、かわりに、その写真を手に取って眺めた。

「この男……、どこかで見た覚えがあります……」

「志垣会長がご存知ならば、話は早い。そう、この男は、元・東洋太平洋ミドル級チャンピオン、橋爪功治です。こちらの男は、原口信夫。しがない新聞配達員で、万引き常習犯……。親を刺し殺した罪で、この間まで少年院に行っていました。スポーツ経験はごくわずかの、ド素人……」

「まさか、この二人を戦わせるとでも……?」

 志垣が、城乃内の目を見張った。

「ええ。今度は、この二人が戦います。しかも、どちらかが戦闘不能になるまで闘う、デスマッチです。運悪く死んだとしても、そこはそれ、世間から野良犬が一匹消えるだけのこと……。フフフ……。普通に考えれば、原口に勝ち目はないでしょう。橋爪は、傷害事件を起こして、この間まで服役していたとはいえ、腐っても元パシフィックチャンプですからね。しかし、今度の勝負では、きちんと原口にハンデを与えるのです。ですから、原口が橋爪に勝てる可能性は、ゼロではありません」

「どういったハンデを……?」

「簡単です。原口は、獲物を使っても良いというハンデです」

「獲物?」

「ええ。ドスを持たせてね。橋爪はそのことを了解し、それを誓約書にしてあります。もし原口に刺されて重傷を負っても、文句は言わないとね。原口とも同様の誓約書が取り付けてありまして、この誓約書は同時に、請求書になっております。勝利者は、この誓約書の半券と賞金を引き替えることになっている。負けた場合、カネは一切支払われない。勝ち負けに関係なく出演料を払うことにすると、駆け引きや、真剣味が薄れて、スリリングな勝負になりませんからね。次のイベントは、こういった内容になっています」

「しかし、どう考えても、原口に勝ち目は無さそうに見える試合ですが……。いくらドスを持たせるとはいえ、チャンプの間合い、フットワーク、パンチのスピード、どれを取っても素人が勝てるはずありません」

「それが意外と、そうでもないんですよ会長。いくら橋爪とはいえ、相手は刃物だ。侮ることは危険……。ほんの少しでも間合いを誤れば、むしろたやすく重傷を負いかねないのは、橋爪のほうです。しかも、素人はときどき、プロには信じられないような切り込み方をしてくる。思いがけない逆転劇が起るのが、ハンデ戦の面白いところ。競馬だって、斤量が同じの別定戦より、ウェイトの違うハンデ戦のほうが、万馬券が出やすいでしょう?うちのお客さんたちは、そういう、荒れる勝負が大好きですから」

「では、郷原さんが私のために、刃物を持った原口が勝つか、それとも拳のみの橋爪が勝つかを予想して、結果を見せてくれると、そういうことですか?」

「まぁ、そういう楽しみ方でも、いいんでしょうが、今回はそれに関して、郷原から提案があるということで。おい郷原、志垣会長にご説明して差し上げろ」

 城乃内は横柄な素振りで、郷原に顎をしゃくった。城乃内はどうも、郷原と川嶋の間柄が、ヤクザに置ける上下関係を超えて、濃密な愛憎を伴った仲であるのが気に入らないようである。

 郷原は、そんな城乃内を胸の中で嘲ると、ディオールのスーツの胸ポケットから、2枚の写真を取り出した。

「提案というのは、これです、会長……。せっかくの会長の展覧試合、もっと面白くしてやれないかと、私の兄貴分の川嶋が、こんな男を連れてきましてね」

「……………?」

 志垣は2枚の写真を手に取った。遠近感を調節し、眼を細める。

「……とくに知らない連中ですね……。誰なんです? この二人は」

「中年男のほうは、池田史郎といいます。この男は、志垣会長もよくご存知のある国会議員と、実に仲良しでしてね。その国会議員のために、いろいろとヤバい犯罪に手を染めてきた男です。もう一人の若いほうの男は、山本亮一……。産婦人科医ですが、もうこれが、甘ちゃん丸出し。カモられるために生まれてきたような男ですよ。フフ……。しかし、善人特有の不思議な、なんともいえないまっすぐさを持っている男です」

「ふむ……」

「さきほどの、橋爪対原口の試合を、この二人にセコンドさせます」

 郷原は、顔色ひとつ変えずに志垣に告げた。志垣は、驚きで見る間に口をぽかんと開けると、郷原の顔をまじまじと見る。

「原口は凶器を、セコンドの指示がない限り使えない……。橋爪も、セコンドの指示がない限り原口を殴打出来ない……。すべてセコンドの言う通りに闘う……。そういうルールにしたら、もっともっと楽しいんじゃないでしょうか」

「な、なんと……! それは面白そうだ……!」

「悪魔の所業に手を染めてきた池田ならば、カネのためには相手を殺せと、凶器を使えと遠慮なく采配するでしょうし、山本は山本で良識人ですから、平和的かつフェアな手段を選手に要求する……。私と会長は、この山本と池田の、天使と悪魔の人間性を賭けた戦いこそを、勝負とするのがふさわしいだろうとね。ククク……」

 志垣の瞳に、生き生きとした生命力が蘇った。唇は唾液に潤い、頬は4、5年若返ったのではと思えるように、色艶が良くなった。好奇心で、その顔は明るく輝いていた。

「そ、それは素晴らしい――。か、神を試す――!! 悪魔のような池田の心と、ほ、仏のような山本が、神の神秘を試す――。わ、わはは。それはいい!! ぜひ、そうしましょう郷原さん!! ああ! 久しぶりに勃起ぼっきしそうだ……、考えただけで……! ウフフ……!」

「では会長……。私が見事この試合、どんな結末を迎えるのか、この二人のどちらが勝つのかを言い当てることが出来たら、神を信じて、安心して死ぬことが出来ますか?」

「そうだな……。郷原さん……。あなたは現時点で、どちらが勝つと思うかね?」

「それはわかりません。この勝負はひとえに、山本がキーだと思います。そこを占いで、神様に見通させてもらうには、私も命を曝け出さないとね。死にギリギリ近づいた精神状態でないと、占いの女神は、未来を垣間見せてはくれないのです。星を透かして見える未来をね……」

 妙に和いだ優しい顔をして、郷原は、小鳥のように首をかしげてみせた。郷原の皮膚は、男にしておくのは惜しいほど白く、透き通っていた。その肌は気温の変化に敏感で、毛細血管がすぐに拡張し、あちこちを桃色に染める。郷原は、こうしてみると童顔なのだ。野暮な眼鏡をかけて、粗忽な話し方をするのは、それを隠そうとしているためかと志垣は思った。

 志垣は、宗教団体の中で生きてきて、禁欲生活をしていたせいか、男を抱きたがる趣味がある。もしも郷原を膝に乗せたら、どんな風にこの白い肌が色づくのだろうかと、志垣は今、夢想していた。

「ああ……。その勝負、ぜひこの眼で見てみたい……。いいでしょう郷原さん……。あなたの占いの力、未来を見通す神秘の技を見るためならば、この志垣、いくらでも……。いったい、あなたが勝ったら、私はいくらお支払いすればよろしいので……?」

「そうですね。1億、ではどうですか会長」

「な………、なん……、ですと………?!」

 余裕たっぷりだった志垣の顔色が、郷原の提示した金額に、にわかに変わった。

「おい、ご、郷原っ!!」

 唖然とした顔をする志垣を伺って、寺本厳が郷原を見た。

「いくらでもいいとおっしゃったじゃありませんか。それとも、そのお言葉はウソですか?神の神秘が見られるなら、いくらでも払うと言った言葉は……」

 志垣は、ほんの少し面食らったような顔をしていたが、やがて、懐から太い葉巻を取り出して、自分で穂先に火を付けると、ひと口吹かして笑い出した。

「フ、フフフ……。いいでしょう、1億……。郷原さんが見事、占いでこの志垣を唸らせたら、1億、お支払いします。しかしもしあなたが敗れたら? あなたの占いが外れたら? そのときはあなた、私にどんな代償を払ってくださるので? 私はカネなら要りません。この通り、カネなど腐るほど持っていますからね。そんな私にあなた、何を払うのです、フフフ……」

 立ち上る葉巻の煙が、まるで志垣の欲望のように、郷原の体にまとわりついてくる。郷原は、顔色ひとつ変えない、氷の水面のような静けさのまま、志垣に言った。

「では、占い師という珍しいペットをプレゼントする、というのは、いかがですか。もし占いを外したら、そのときは、会長にこの身を捧げましょう。会長のペットとして、会長が息を引き取るまで、私をお好きに……。会長のお慰みにするもよし、汚い仕事をさせるのもよし……。私は、何でもやりますよ会長……」

「フ、ふ、フフフ!! その言葉、確かに! 確かに聞きましたぞ、郷原さん……! ああ、私は今、最高に胸が震えています。あなたが勝てば、私は神の神秘をこの手に握り、心安らかにあの世へ旅立てる。あなたが負けたら、あなたを毎夜この腕に……。ああ、なんて素敵な勝負なんでしょう、うふ、うふふふ!!」

「ううっ……!!」

 寺本厳と、城乃内貴章は、狂っているとしか思えない志垣と、郷原の約束に、身震いするようなおぞましさを感じていた。

 寺本は、目を白黒させると、冷めたブルーマウンテンを、一息に飲み干す。城乃内も、あまりの狂った二人に身震いして、タバコを咥えた。とにかく約束の内容はこれで固まった。あとは、いよいよ調印式である。場所をホテルの部屋へと移してから、寺本組組長・寺本厳が見守る中、ひっそりとそれは執り行われた。賭けの内容を整理して、城乃内が証文にしたためていった。

 

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