第二十四話 CHAPTER8、調印(2)
賭博の取り決めの書類は、以下の通りであった。
誓約書
1、志垣智成(以下 甲)は、来る12月25日 港区六本木1-○○―××にて行われる 橋爪功治 対 原口信夫のボクシングハンデ戦において、郷原悟(以下 乙)にその予想を依頼したことを認める。
2、甲は、乙が予想した結果が、第三者の検証を踏まえて充分に的中していると認められた場合、乙に 金 ¥100,000,000― を支払うものとする。その場合、乙が指定する期日までに、乙が現金に出来る方法にてこれを支払うものとする。
3、乙は、来る12月25日 港区六本木1-○○―××にて行われる 橋爪功治 対 原口信夫のボクシングハンデ戦において、甲にその予想を依頼されたことを認める。
4、乙は、乙が予想した結果が、第三者の検証を踏まえ、かつ甲本人が的中していないと感じた場合、すみやかに戸籍を甲が指定するものに移し、甲の存命中は甲の指定する場所に起居するものとする。
以上、相異なきことをここに誓う
甲)〒
住所
氏名
印
――――――――――――――――――――――――――――――
乙)〒
住所
氏名
印
―――――――――――――――――――――――――――――
見届け人は、この契約内容が履行されることを保障するものとする。
見届人)〒
住所
氏名
印
――――――――――――――――――――――――――――――
見届人)〒
住所
氏名
印
――――――――――――――――――――――――――――――
このような紙が、4人の目の前に置かれた。
しかもそれは、きちんと5枚複写になっていて、ペン跡がすべてに転写される本格的な契約書であった。
もちろん、賭博自体が非合法であり、立派な犯罪だ。だからこれを公証人役場で承認してもらうということはできない。しかし、もしこの契約を破れば、それは、構成員・準構成員を含めて数百人はいる寺本組と、その上部組織である関東報勝会の構成員1万2千人を敵に回すことになる。この契約書は、そういった恐ろしいヤクザの組織力を証明するものなのだ。
城乃内は、契約書の中身に誤字脱字や、誤った表現がないか何度も確認し、それを志垣、郷原、寺本にも確認してもらった。
寺本厳はおもむろに、持っていたセカンドバッグから、白布に包んだ小さな五徳ナイフを取り出すと、それを城乃内に手渡した。城乃内は丁重に受け取って、布を解くと、ターボ式ライターで刃をよく炙り、オキシドールをガーゼに染み込ませて丁寧に拭いた。これは、傷口に雑菌が入らないための下処理である。
それをまず、郷原に差し出す。郷原はあっさりと自分の左手の親指に刃を突き立てると、ポタポタと血が滴るそれをそのまま、賭博の取り決めの証文に押しつけた。
血判だ。
志垣はその様子に躊躇していた。石のように硬直したままだった。志垣の、どうしようもない生、絶対的な自己存在への執着が、己の体を傷つけることをためらわせていた。城乃内が、切っ先についた郷原の血を拭い、同じようにターボライターで刃を焼いて、オキシドール消毒をしている間、じっと硬直していた。それでもナイフを渡されると、周囲の視線を窺ってから、何度も呼吸を整えて、おもむろに親指に傷をつけた。
しかし、深さが足りなくて、すぐに血が乾いてしまった。
「こ、困りましたな、これは……。あいや……、な、なんとか、絞り出ればいいのですが……」
そういって、一生懸命親指を擦り、血をしごき出して、どうにかすべてに血判を押す志垣である。あとの問題は、郷原悟が、どのタイミングで、占い予想をするかということであるが、それについては寺本厳が、郷原を見据えながら言った。
「さて。これでもう、賭けを実行するだけになったな。もう会長も、お前も逃げることはできん。明日の夜9時から、デスティニーの特設リングでデスマッチボクシングが行われるわけだが、その直前の7時に、郷原にはこのホテルのスィートルームで、占い予想を披露してもらおう。そのあと、ホテルの部屋の中で、全員で占い結果を見届ける。郷原や占い結果を知った者が、選手たちにアドバイスとか、サインなどを送らぬよう、ホテルの部屋にモニターを繋いで観戦する。今日はまぁ、本番前夜だ。ゆっくり休め郷原。部屋はこの上に取ってある」
そういって、郷原の左肩を、ポンと叩く寺本だった。
「っ………!!」
苦痛に思わず顔を歪める郷原。組長は、郷原が撃たれたことを知らないのだ。
「……? どうしたよ郷原」
「いえ、なんでも……。まぁ、明日はせいぜい、頑張ります」
郷原は、痛みをかみ殺して立ち上がると、ホテルを出る寺本厳と、志垣智成、そして二人のボディガード役城乃内の後ろについて、ホテルの車寄せまで見送った。志垣は、ひとクセもふたクセもありそうなSPたちに囲まれて、迎えのロールスロイスに乗り込むと、嬉しそうに去ってゆく。明日また志垣はこのホテルの、スィートルームへとやってくるはずだ。醜い、蛆虫のような目をして――。
やがて、黒い礼服と、白い手袋を嵌めた運転手が、リムジンを寺本と城乃内の前に寄せてきた。
「では、明日は頼んだぞ郷原」
「はい。組長のお顔に泥を塗ることにならないよう、当てますよせいぜい……。絶対にね」
「フフフ。その言葉確かに聞いた。ではな。今日はゆっくり休め」
寺本は、リムジンの窓からそう言うと、そのまま日が暮れ始めたビル街の車道へと、消えていった。車の陰が見えなくなってから、なんとなく、左手の親指を見る郷原である。
「深く切り過ぎたな、ちょっと」
そう言って、右手で不自由な左手を支えると、親指を舐めた。あかりの顔が胸にちらついて、昨夜のことを思い出していた。あんな風に、打ち解けておしゃべりして、温かい空気で包んでくれた女を、郷原は、姉の深雪と、川嶋の愛人久子以外に知らない。
女にはいつも嫌われて、恐がられていた。酌婦でさえ、苛ついた郷原をじゃけんにして、追い出そうとする。もうあかりのいない、冷たいホテルのベッドに、戻りたくなかった。
(どこへ行こう……)
しばし考えて郷原は、なんとなく、ムルシエラゴを停めてある駐車場に戻った。ムルシエラゴは、主人の命令を待ちかねたように、身を潜めて、郷原が運転席に乗り込むのを待っていた。
シートにもたれ、イグニッション・キーを回す。野獣の心臓が、一気に吹き上がり温まる。
[フフフ……。哀れだな、郷原……。帰る場所もないとは……]
(またお前か――。放っておいてくれよもう――)
いつもの、頭の中の誰かだ。
[そうは行かない――。俺はお前だからな――。分かれることなど出来ないのさ、ククク……]
頭の中の、もう一人の自分が疎ましくて郷原は、アクセルを踏み込んだ。郷原の忠実な僕は、激しく心臓を爆発させて、すぐに圧倒的な排気を産み出し、頭の声を吹き飛ばした。
ほとんど無意識に、高速道路のランプを入ると、首都高をぐるぐる回る。暮れてしまった空の色と、遠くに揺れるそれぞれの家庭の明かりが、胸を不安にさせて、郷原はなんとなく、急にステアリングを中野へと向けた。
一般道に戻り、中野通りへ――。そして、静かな路地裏のコインパーキングにムルシエラゴを駐車すると、その目の前に見える木造2階立ての、薄汚いトタン壁のボロアパートに向かった。
**
「なぁ父ちゃん、腹へった。なんか作ってよ。もう6時過ぎだぜ?」
宿題をしていた直人がそう言うと、折りたたんだ座布団に肘を突いて寝転がり、テレビを眺めていた田代は、壁掛け時計を見た。
「あーホントだ。こんな時間か。そろそろメシ作らねぇとな」
そう言って、田代は身を起こすと、台所のほうへと向かった。
台所といっても間続きで、3畳ほどのスペースしかない。台所のすぐ左側が玄関である。その玄関の少し引っ込んだところに、少人数用の2ドア冷蔵庫があって、田代はそこを覗き込もうとしたのだが、そのとき、ドアに嵌められている擦りガラスの向こうに、人影があるのが見えて、同時にノックの音がした。
「んあ~、新聞の勧誘? それなら間に合ってるよ、同業者だし」
面倒くさそうに田代がドアを開けると、そこには思いがけず郷原悟が立っていた。
「よぉ」
「ご、郷ちゃん……!! どうしたの?! 腕、大丈夫なのかっ? し、心配してたんだよっ!! 俺!!」
「あー……、おっちゃんに迷惑かけちまったな……。まぁ、挨拶だけでもってよ……」
珍しい声に、直人が奥から、飛び出してきた。
「あー! 郷原だっ!!」
「よぉ。元気か直人。今日はクリスマスイブだ。おごってやるから寿司でもピザでもケーキでも、なんでも好きなだけ頼め。あとホラ、小遣いもやるぞ」
「だっ……! ダメだよ郷ちゃん!」
郷原の大盤振る舞い癖に、田代が台所から飛んできた。
「まぁ、いいからいいから。いいじゃねぇか小遣いぐらい。俺は自分の子どもも、親戚もいないから、直人ぐらいしかくれてやれる子どももいないんだ。させてくれよおっちゃん、そのぐらい……」
「あー、そう……? んじゃあ、お言葉に甘えるかぁ。まぁ、今回は大変だったからなぁ、郷ちゃんを探すの」
父親の許可が降りたので、小遣いの1万円札を貰い、嬉しそうに、チラシを見ながら電話器を取る直人だった。
「んで、傷の具合はどうなんだ、郷ちゃん……。まだ3日経ってないだろ?撃たれたの……。大丈夫なのかい?」
「まぁ、どうにか。熱も下がったし、山本の施術が上手かったんだろ、たぶん……。お陰で手もちゃんと動くし、感覚はあるよ。握ったりすると、痛てぇけどな、まだ」
それを聞いて、ホッとした笑顔を浮かべる田代だった。
「良かったよぉ~。手が使えないとほんと、大変だからなぁ……」
ハロゲンヒーターが、田代の後ろで首を振っていた。郷原は部屋を見回した。
「ふーん……。男所帯のわりには、キレイに暮らしてんじゃん……。お婆ちゃん、まだ退院しねぇのか?おっちゃん」
「あ、それがさ、明日には戻ってくるんだよ。おかげさまで膝の手術が上手く行って、人工関節っつうの?それ取り付けてもらってさ。リハビリしたら前よりぜんぜん歩けるようになっちまって、本人大張り切り。今から、正月はおせちを作るなんて言っちゃって、なかなか死にそうにないよ」
(おせちか――。すごく久しぶりに聞いた。その言葉――。もしかしたら、手作りのそんな料理なんて俺、久子ママのところで1、2度、食べたっきりかもな――)
「お婆ちゃん、明日、昼には帰ってくるんだよ」
直人が、嬉しそうに教えてくれた。
畳の部屋に小さいテレビ。小さいちゃぶ台、柱時計、押し入れ、小さな台所――。なんだか、無性に懐かしい――。
「どうしたんだよー、郷原……」
直人が、郷原の顔を覗き込んでいた。
「ああ、いや、なんでもねぇ……。そういや、ずいぶんゲームソフトがあるな。最近のゲームってどんなのなんだぁ?」
テレビ台の下にあるゲームソフトを、郷原は勝手に覗き込んだ。直人が郷原の背中に言った。
「それみんな古いよ。今はアプリとか、オンライン、ダウンロード」
「なんだよ、麻雀、競馬、パチスロ、FXばっか。これ、お前のか?」
「違うよ。父ちゃんのだよ」
「いやぁ、いろいろ、カネが苦しくてよぉ~。生活費を稼ごうと、雀荘に入り浸ったり馬券研究したり。まぁ、その練習用にというか」
バツが悪そうに後ろ頭を掻き、笑う田代だった。やがて出前がやってきて、3人でそれを突っつきながら、直人の進学の話とか、ガールフレンドが出来た話、今日あった有馬記念の話などを、田代親子は、郷原に楽しく聞かせてくれた。
それはたぶん、郷原を歓迎しようという気持ちもあるだろうけれど、ずっと入院していたお婆ちゃんが、元気になって帰ってくる嬉しさが、むしろそうさせているんだなとわかった。
「…………………」
郷原は、二人の様子を微笑んで眺めていた。そして、急にいたたまれなくなった。
「ところで俺さ、直人にメシ、驕りに来ただけなんだ。そろそろ帰るよ」
そう言って郷原は、立ち上がりだした。
「なんだよ郷ちゃん……。もう帰るのかい? せっかくなんだから、今から一緒に飲もうぜ? こんな狭いとこだけど、酔いつぶれたら寝てっていいからさ。な?」
「あ、いや、気まぐれで来ただけだからよ……。邪魔したな」
そう言って、トレンチコートを、痛まない右手で掴んで立ち上がると、すぐに玄関のほうへ向かった。
「郷原ぁ~……。もう帰っちゃうの……?」
急に顔が曇った郷原の違和感を気遣って、玄関まで追いかけてくる直人だった。その直人を振り向かずに、郷原はつま先を靴に突っ込んだ。
「ご、郷ちゃん……!!」
靴を履きかけている郷原の背中に、田代が大きな声を出した。
「う、占い賭博なんだろ?明日……。今度は郷ちゃん、何を賭けたんだ……」
左足の靴を履き、今度は右足の靴に足先を突っ込みながら、郷原は言った。
「自分の人生……。負けたら、変態ジジィのペットになる約束。ジジィが死ぬまで」
「う…………」
靴を履き終えると、郷原はコートに袖を通した。左腕が痛いから、ゆっくりでないと、コートが着れない。
「そうだおっちゃん、あれ、返してよ……」
「あれ……?」
「そうだよ。ベレッタ。おっちゃんが持ってるんだろ? どうせ……」
「う、うぅ……、そ、それは……」
「あんなもの、子どもに見せられるかよ……。俺、直人には本当に、素直な大人になって欲しいんだ。直人に見られたくねぇよあんなの……。だから、返してくれよ」
うつむいたまま、郷原は言った。その全身が、隅々まで張りつめた決意を漂わせていた。抗うことはできないほど、毅然としていた。
「う……、うぅっ……っ……!」
田代は、泣きそうな眼をして、冷蔵庫を開けると、スーパーのビニールに包んでおいた郷原のお守り、ベレッタM91を、震える手で、手渡すしかなかった。
「なぁ……。一緒に商売しようよ、郷ちゃん……」
搾り出すような声で、田代は呟いた。
「あ~……??」
「郷ちゃんほどいろいろ出来て、頭のいい人だったら、絶対上手くできるよ! もうこんなことやめてさ、占いなんかやめて、一緒に探偵屋でも、ラーメン屋でも、ゲーム屋でもなんでも! 郷ちゃんが社長になってくれたら俺、一生懸命働くよ……、だから……」
言いかけた田代の言葉を振り切るように、郷原は、満面の笑顔を見せた。
「まぁ、心配すんなおっちゃん。俺は、おっちゃんを占い賭博でぎゃふんと言わせた男だぜ? その天才占い師の郷原様が、負けるわけねぇだろ? ちゃーんと爺さんからカネぶん取って、おっちゃんに分配してやるよ。期待して待っててくれ」
「そ、そんなんじゃねぇよ郷ちゃん……!! そんなんじゃ!!」
立ち去ろうとする郷原に、田代はさらに必死な声を出していた。
「郷ちゃん……。あかりって子、心配していたよ……。おカネは返しに行くと……。また会いたいと伝えてくれって……。落ち着いたら一緒に飲みに行きたいって、そう言ってた。なぁ……!」
郷原は、田代に背中を向けたまま、ドアのノブを掴んだ。
「まぁ、とにかく良いお年を。直人も、元気でな……」
「郷ちゃん!!」
「郷原ぁ……」
立ち尽くす田代と、直人をそのままにして、郷原は田代家を後にした。アパートの鉄板の階段を、カンカン音をさせて降りてから、ベレッタ・M91を、コートの内ポケットにしまう。
ベレッタ・M91――。これが俺のお守り――。
これが手元にないと、占いを立てることが出来ないのだ。この拳銃が、いつでも自分の人生を終わりにさせてくれると思うと、安心して、無茶な勝負に臨める郷原だった。
(心配かけて済まねぇなおっちゃん。でも、これは俺の最後の砦……。明日もし、占いを外したら、そのときはこれで一発、こめかみをブチ抜くだけだ――)
また、あかりの顔が胸を横切った。郷原は、北山あかりと別れてよかったと思った。たぶん、あのまま一緒に居たら、悲鳴を上げ続けている自分の心が怒涛のように、北山あかりを飲み込んで、めちゃくちゃに彼女を傷つけていたかも知れない。
だから、やっぱり別れてよかった。このままずっと、どこまでも孤独がいい……。
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