第二十九話 CHAPTER10、占い結果(1)
首都高の高架が、六本木通りと平行に、どこまでも伸びていた。
東京メトロ “六本木駅” を降りて、麻布方向へとしばし歩く。
騒がしい交通と、人いきれを渡り、六本木らしい煌びやかな通りから、やや奥まった裏路地を進む。
すると、大きな雑居ビルに飲み込まれるような格好で、鼻が曲がりそうなゴミ溜まりと、陰鬱な店が見えてくる。
ビルの1階部分に “Destiny” と、ゴシック風の文字。その真下には、ペンキをベタ塗りしたように重厚な暗緑色の、ロダン作“地獄門”を真似た扉。中が何の店なのか、通り過ぎただけではまったくわからない外観である。
その店の入り口は、こんな調子で、入るのをためらわせてしまうほど威圧感があった。退廃的で、いかにも野良犬や野良猫たちがたむろしそうな、悪徳の臭いを発散させていた。
暗い藍色のライトが浮かび上がらせる、威圧感のある地獄門のミニ・レプリカを入ると、エントランス――。ネクタイをした黒服が、立っている。城乃内貴章がやってくると、黒服は「支配人、ご苦労さまです!」と頭を下げた。
城乃内は、右手を軽く上げただけの挨拶をすると、店内へと通じるドアの中へ入っていった。その向こうには、激しいクラブビートと、眼もくらむような5色のライト、フラッシュが交錯している。
ガラシャツの胸に金のチェーンを光らせた城乃内は、それなりに客が入っているダンスフロアを抜けると、その奥の階段室へ続く防火扉を開け、階段を地階へと降りていった。
この階段は、“裏デス” の会員しか降りられない。この階段の先にある地下2階が、闇のゲームバー “裏デス” なのだ。
階段をワンフロア分下りきると、また防火扉を開ける。その扉を入ってすぐに、小さな支配人室があって、その奥には、広々とした薄暗いホール――。ホコリっぽくて湿気ていて、殺風景なそこには、ビリヤード台と、ロープを張られた小汚いリングがあった。
今、この時間はまだ、通常営業の時間帯だ。数十分後にはメインイベントが始まるが、まだ少し早いせいか、フロアをうろつくお客の数はまばらである。
しかし、今日のメインイベント“ハンデボクシングデスマッチ”が行われる直前になれば、5、60人は集まってくるだろう。
「ボチボチってところか……。ククク……」
城乃内は、会場の客の入り具合を見渡してから、支配人室へと入っていった。これから寺本組の使い走りが、店で使う現金を運んでくる時刻なのだ。
それを見届ける、キャップを目深に被った男。
窺うように、見つからないようにキョロキョロすると、彼は、ハンデボクシングの試合に参加する池田と、原口の控え室を探した。
ハンデボクシングの試合開始まで、残り50分を切っている。男は、最後の望みをかけた作戦に出ようとしているのだった。
そのとき池田は、原口と同じ控え室の中、習ったばかりのフットワークの練習を、この期に及んでまだやっている原口を、腕を組んで眺めていた。
「おい、そろそろ止めたほうがいいぞ。試合前に動き回って、体力を消耗させてどうする」
「うるさい!! 僕が戦うんだっ!! 僕の勝手だろっ!!」
そう言って原口は、姿見の前で執拗にイメージトレーニングを続けていた。全身が緊張感でピリピリと殺気だっている。池田は、チッと舌打ちすると、その原口を見つめたまま、、思案を巡らせた。
(原口の貧弱なボディ――。とても、橋爪から逃げ続けられるスタミナがあるとは、思えない……。さて、どうするかな……)
これから始まるハンデボクシングは、1ラウンド2分、インターバル1分の、ラウンド無制限デスマッチである。しかし、3ラウンドも原口が持つかなぁと、常連のお客たちはほとんどが思っていて、今日の原口のオッズは、異常な高騰ぶりを示していたのであった。
(試合開始から恐らく、原口は、すぐにコーナーに追い詰められるはずだ……。しかし、問題は山本……。山本が押す、橋爪のパンチ許容回数ボタン……)
今度の試合の趣向は、こうだ。
山本は、クイズ番組のボタンのような箱を持って、セコンドに望む。リング上には、電光掲示板。そこに、山本が押したボタンの回数が表示され、チャンピオン橋爪は、そこに表示された回数しか、原口を殴打できないルールである。
もし、打撃回数をオーバーしたり、逆にラウンド中、ボタンが押された回数の打撃を消化できなかった場合は、即、橋爪の負けということになる。ちなみにヒットしなかったパンチは、カウントされない。あくまでも、相手にダメージを与えるパンチの数を、山本が決めるのである。
一方、原口に用意された獲物は4つ。50㎝の木刀、50㎝の竹刀、30㎝の短ドス、50㎝の長ドスで、この4つ全部を最低1回は使わなければならない。それぞれの獲物は最大3ラウンド使用までで、それを越えて使い続けることができるのは、試合がそれ以上にもつれ込んだ場合の、最後に手にした獲物だけだ。従って殺傷力の弱い竹刀、木刀で、各1ラウンドずつは持ちこたえなければならないのだ。最後に手にした獲物で、最後まで戦わなければならないから、決め手はやはり、50㎝の長ドスになる。最初から使ってしまうと、3ラウンド経過で使用できなくなってしまうから、もちろんこれを最後に持ってくるのが妥当だが、そうなると原口は3ラウンドは持ちこたえる必要がある。
あるいは作戦としては、最大9ラウンドは長ドス以外で引っ張れるから、序盤はなるべく長ドス以外でしのぎ、橋爪が疲れてきたところで最後に本命を使う、という戦略もあるだろう。
そして、1回獲物がヒットしたあとは、原口が連続技を繰り出していいのかどうか、池田が采配する。2回連続で刺すことを、自己判断でやってはいけなかったが、池田が手元の青い札を上げた場合には、容赦なく連続技を出して良いルールだった。ただしこれも、一度青札を上げたらそのラウンド中は相手に背中を向けられない決まりで、そうなったら原口はひたすら切り込むしかなくなる。背中を向けたら即ペナルティーとなり、次のラウンドでは一回、武器の使用ができなくなる。
だから、ラウンド制限時間内での指示のタイミングが重要なのだ。
そこを、どうするか――。タバコをくゆらせて、池田はひたすらそんなことを考えていた。
そのときだ。コンコン、と、軽いノックの音。
「だれだ……?」
いぶかしげに、音のした入り口のほうに、首を向ける池田。恐る恐る、安っぽいスチール製のドアをそっと、窺うようにごく薄く開けると、そこには、キャップを目深に被った男の姿があった。池田は、警戒して眼を細め尋ねる。
「誰だ……?」
「山本です、池田さん……」
「な……! なに……!! なんだと……?!」
意外な人物の登場に驚き、ドアを掴んでいた池田の手が緩んだその一瞬を捉え、するりと、控え室の中に身をすべり込ませる山本。
鏡の前でコンセントレーションを高めていた原口も、目を丸くひん剥いて、思いがけない客の訪問にうろたえていた。
「な、なぜキミが、ここに……?」
キャップを目深に被り、フリースのポケットに両手を突っ込んだまま、山本は言った。
「フフ……。提案がありましてね、お二人に……」
不敵な、力強い、それでいてどこか張りつめた山本の声。池田と原口は、緊張して身構えた。
(この期に及んで小細工など、されてたまるかっ……!!)
そんな態度だった。
「まぁ、そんなに身構えないで。こんな勝負、間違っていると思いませんか、理事長……」
「………???」
山本が言わんとすることが飲み込めなくて、池田と原口は顔を見合わせた。ずかずかと、ロッカールームに入り込んだ山本は、室内の中央に置かれた、会議用の長テーブルの前の、パイプ椅子へと勝手に腰掛ける。テーブルの上には案の定、これから試合で使われる刃物、木刀、竹刀などが置いてあった。ドライバーやピンセット、木屑などの工作のあとまで残っている。。
やはり……。こんなに無造作に獲物を、試合前から控え室に置かれては、細工をしない手はないだろう。
「フフフ……。勝とうと必死ですねぇ、二人とも……。フフフ……」
テーブルに置かれた獲物を、手に取って笑う山本。
「何しにやってきたっ!! お前の作戦になど乗らないぞっ!! 帰れっ!! それに触るなっ!!」
そういって、声を荒げ、テーブルの上の獲物や、道具類をかき集める池田である。山本が笑いながら手にした30㎝の短刀も、手からもぎ取った。しかし山本はマイペースである。
「いいんですか?僕は、全員が無事に怪我ひとつせずに、カネを掴める方法を、提案しに来てやったのに……」
「な、なんだと……?」
池田がその言葉に、警戒と関心の入り混じった眼で、山本を見つめた。不敵な笑いで肩を震わせ、提案を切り出す山本である。
「間違ってるでしょ?こんな勝負なんてねぇ?原口くん……」
「……なにが言いたいんだ、あんた……」
山本は、立ち上がると、一歩前へと踏み出して原口を見た。
「フフフ……。要するに、結局みんなカネだってことさ」
「カネ………?」
「ああ。原口くんも理事長も、橋爪さんも、みんなカネ、欲しいわけでしょう?」
「そ、そりゃあ、そうだけど……」
窪んだ青白い頬を汗で濡らした原口が、伏目がちに本音で頷く。その全身からは今日の試合への、自信のなさが窺えた。
「だったら、みんなで示し合わせて、八百長にしませんか」
「な……、なに……??」
池田が、山本の思いがけない言葉に眼を剥いた。
「僕は、昨日ひと晩中考えた……。どうしたらみんな、カネが掴めるのか……。そうして考えた結果、やっぱり、こうするのが一番じゃないかと……。示し合わせて、八百長試合にして、全員でカネを分配するんです、理事長」
「ううっ……、しっ、しかしっ! 昨日までのあの態度っ! あ、あれは何だった? あのやる気満々だった、強がってた態度は……」
「決まってる。あんなの、必死の芝居だ。ああいう態度でもしなければ、僕に再び自由は訪れない。逃げるチャンスも生まれない」
山本は、今日の試合に不安そうな原口を見据えた。
「原口くん……。残念だけど、きみは橋爪さんには勝てないよ。いくらドスを持って戦うからって、向こうはプロだ。きみが無事に、この試合を終えて、カネを掴んで社会復帰する方法はただ一つ。みんなで八百長試合にすることだ。わかるだろ……? だから、手を組もうじゃないか、な?」
「うっ………」
山本の言葉に、張りつめていた原口の神経は、激しく揺さぶられていた。それを見る、池田――。高速回転する脳――。山本のこの言葉……。信用していいのか……?
「は、橋爪は……? 橋爪は、八百長にすることを了承しているのか……?」
池田が、疑心暗鬼の眼をして、山本のほうを見る。
八百長にすることを承服させておいて、そのくせ、それを利用して付け入られたのでは敵わないと、池田は警戒しているのだ。
「ええ。橋爪さんにだって、家族がいる……。この試合が終わって、何もかも自由になったら、知人の建設会社で働くんだと言っていた。奥さんと子どもとで、人生をやり直したいと……。今、ここに橋爪さんが居ないのは、二人で控え室から抜け出してしまうと、バレるからです。橋爪さんは今、僕が池田さんや原口くんと話せる時間を作るため、室内でわざと物音を立てて、僕が控え室にいないのをごまかしている……。時間がありません。早く決めなければ……」
原口と二人、山本を挟むように、唖然と突っ立っていた池田だったが、くるりと背中を向けると、自分もタバコに火をつけた。
猛烈な計算……。信用していいのか? 山本のこの、提案を……。
「八百長するとして、しかし、どうやったら?それにカネはどうするっ……。私は正直言って、私のカネを4人で分配しようと言うのなら、この話は乗らない! 冗談じゃない、そんなのっ……!」
「フフ……。もちろん、そんなのわかってます。リスクは、言い出しっぺが背負うべきだ。僕が負けます理事長。だから、僕から取る5千万円を、原口くんや橋爪さんに、分けてあげて欲しいんです」
「な、なんだと?!」
狂気の提案に、池田は眼をしばたたいた。原口も、口をぽかんと開けたまま、山本に見入っていた。
「し、しかしっ……! どうやって?? まさか、橋爪がガードを甘くして、自らこの原口に、刺されるとでもいうのかっ……??」
「いいえ。血を流すのは、僕ですよ理事長……」
「な、なんだと……?!」
「セコンドが続行不能になる、ということをたぶん、ここの連中は想定していない。そこに付け込むわけだ。僕が試合中に倒れたり、気絶したりすれば、不戦勝ということで池田さんと原口くんの勝ちになる」
「う、ううっ……!」
池田と原口は、山本の提案に5秒ほど、考えただろうか。しかし、その間に二人の考えは、今の山本の提案は、やっぱりフカし、ハッタリだと思えてきた。
だって、どこの世界に、八百長試合のために自分の命を犠牲にするアホがいる――?やっぱり作戦だっ!!俺たちの心理を撹乱する、何らかの作戦っ!!こんな提案になど、誰が乗るかっ!!
「バカがっ……!! フカしやがってっ……!! 出てけっ!! ちらりとでも話しを聞こうとした俺たちが、間違いだったっ!! 試合ではボコボコにしてやるからなっ!!」
池田は怒り心頭といった感じで怒鳴ると、山本を突き飛ばしてドアのほうへと追いやった。そして、思い切り体当たりして、ロッカールームから追い出した。よろけた山本は、廊下に尻餅をついて、勢いよく締め出されたドアを眺める。
そして、小さい声でひとりごちた。
「まぁいいや……。一応は、上手くいった……。フフフ……」
そういって、つぶやいて、山本は微かに笑みを浮かべた。ともかく、目的は達成したのだ。あとは、試合開始前に観客たちの前で、言質を取るだけ――。そうすれば、悲しい橋爪さんや、原口くんが、殺しあわずに済む……。
夕べホテルで一人、一生懸命つくったアレに、あとで気づいてももう遅いからな、池田――。
山本は、一人ほくそ笑んだ。
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