最終話 FINALCHAPTER、祈り

 年の移り変わりを華やかに盛り上げようと、デコレーションされた、賑やかな夕闇の街。

 この大東京は、孤独な地方出身者で溢れ返っている。だから、盆と暮れにはみんながふるさとへと帰っていって、妙に街は静かなのだが、それでも大晦日の夜ともなると、ここ、明治神宮の周辺には、無数の人々が繰り出してくる。

 北山あかりは、そんな街をふらふらと、さっきまでほっつき歩いていて、疲れたので、通りにある1杯150円のコーヒーショップへと入ったのだった。そこで、最低の値段の、150円のSサイズホットコーヒーを注文。それから、タバコの煙が充満する禁煙席に座ると、拾い集めてきたさまざまな求人雑誌を広げ、履歴書をひたすら書き始めた。

 大晦日の今日。もうとっくに、一般企業は冬休みに入っていて、あかりのバイト探し、職探しは今日もはかどらなかった。

 郷原から借りた100万円は、すでに98万2千4百円になってしまっていた。郷原と別れてからずっと、あかりは、マンガ喫茶に寝泊りしながら、アパート探し、職探しをしているのだが、年末で時期が悪いせいか、なかなか思うように行かない。あんまりこんな調子でいると、残金が目減りするばかりだから、じっとしてもいられなくて、開いてないのはわかっているのに、今日も朝から歩いて不動産屋を探し、バイトを探した。朝から食べたのはメロンパン1個だけだった。

 それでもまだ見つからなくて、こうしてコーヒーショップで、求人雑誌と首っ引きなのである。

 まだ二十歳はたちを少し超えただけの若いあかりにとって、一番簡単なのは体を売ることだが、それをしたらもう二度と、郷原とは会えなくなるような気がしていた。

 簡単にお金を稼ぐのは、きっと間違っているのだ――。あかりは、水商売の世界に飛び込んで、なんとなくそれがわかってきた。

 簡単にお金を稼ぐということは、そのぶん、素直な幸せや、人の温かさが見えなくなってしまうということ――。お金と引き換えに、大切な大切な何かを、きっと失ってゆく――。

 それがわかるわ、あたし、今なら……。だから、働く苦しさをちゃんと、見つめなくちゃ……。

 あかりはそう思って、安い時給でも、若い女の子がやっていて変じゃないと思えるような職を探した。

 受付係とか、ウエートレスとか、コールセンターとか。人材派遣とか、マネキンとか、運送会社の仕分けとか。でも、求人雑誌の明るいうたい文句に見え隠れする、ピンハネの構図が、どうしてもあかりの心を萎えさせる。

 世の中は、なんか変だな……。働く人の賃金はこんなに安いのに、世の中にはつまらないものを作ったり、売り買いするだけで大きな儲けを作り出す人たちがいる……。

 そう思いかけて、あかりは首を振った。

(ううん……。幸せって、そういうことじゃない……。そんな風に、お金や派手さに基準を置いたら、あたしの人生は不幸になってしまう。自分で勝手に、自分の人生を他人と比べて、不幸で塗りつぶすなんてバカだよ。あたしは、あたしなりの幸せを見つけていけばいい……。そうすれば、こんな日々だって、きっと意味のある毎日になる。惨めな一日だって、二度と戻らない生きていた証だと思えば、味わうべきなのよ。楽しく惨めに過ごせばいい……)

 ふと見上げると、安いコーヒーショップの外は、とっぷりと暮れて、もう夕食時である。あかりが見上げた窓の先を、年越しそばの出前に行くらしきおかもちが、自転車で通りすぎてゆく。

 あかりは早めに、いつものマンガ喫茶へと帰ることにした。街に出ると、2年参りでもするつもりなのだろう、気の早い人たちが、もう連れ立って明治神宮へと繰り出していた。参道には縁起物の熊手や破魔矢やお守りを手にした人々が、賑やかに行き交っている。

 あかりの胸になぜか、あの孤独な瞳が浮かんできた。お母さんとつぶやいて、自分の眼をじっと郷原が見つめたあのときから、あかりの心は戸惑っていた。彼の中に、最愛の父親の面影を、それから、手放した娘の姿を見た気がした。

 カップルや家族連れが多かった。今ごろりえは、飯田継男やその妻に手を引かれ、3人連れ立って神社へ詣でているのだろうか。飯田の妻のこずえのことを、ママと呼んでいるのだろうか。

 あかりは人ごみの中に、トレンチコートに両手を突っ込んで、眼鏡越しにはにかんで笑っている郷原を探したけれど、どこにも彼はいなかった。いつも半纏はんてんを着ていた、植木屋の父親も探したけれど、見つからない。

 こんなにたくさん、人がいるのに――。世の中には、こんなにわんさか人間がいるのに、どうして今ここに、お父ちゃんも、お母ちゃんも、りえも、郷原さんもいないんだろう……。あたしの周りには、なんで誰もいないんだろう……。

 あかりは、参道の人の流れに混ざった。人に揉みくちゃにされているうちに、よろよろと、賽銭を投げいれる場所に出てしまった。仕方がないので、郷原にもらった100万円のうちから、10円だけ取り出すと、賽銭を投げかかったが、やっぱりハッと我に返って、10円玉を再びポケットに戻した。

 おカネ――。今のあたしと郷原さんを結ぶ、たった一つの絆――。やっぱり、たとえ1円でも、無駄なことに使いたくはない――。

 あかりはそう思い直すと、空手で柏手を叩き、お辞儀だけした。

 それから、震える手を合わせて、祈った。願ってはいけないことは、あかりにはわかっている。

 願ってはいけないのだ。それは、自分の気持ちに気づくことになってしまうから――。

 でも、願わずにはいられない。もう一度、あの孤独な眼をした男に、めぐり逢えることを――。

 でも、願ってはいけない。願っては――。

 あかりは考えあぐねて、こんな祈り方をした。あかりの祈りの台詞は、こう続いた。

 

 

 神様。あたしは、間違っていました。

 あたしはずっと、神社に来ると、合格しますようにとか、片思いの男の子が振り向いてくれますようにとか、おカネ持ちになれますようにとか、自分勝手な欲や希望ばかりを祈ってきましたね。

 でも、もうこれからは、それは止めることにします。

 見えない未来を勝手に期待するのは、不幸なことだから――。願いを持つと、その願いが叶わないことを嘆いて、呪って生きてしまうから――。

 だから、郷原さんともう一度、会えますようにとは、願いません。たとえ会えても、会えなくても、郷原さんがあたしにしてくれた親切や、話してくれたことは本当だから――。

 あの夜確かに、わかり合えたのだと、信じているから――。

 信じて、幸せでいようと思うから――。

 もし、一つだけ神様にお願いがあるとしたら、どうか、これ以上郷原さんの心が、孤独で凍りつきませんように……。郷原さんにとっても、あの夜が心を温めてくれますように……。

 あたしのお願いは、それだけ。

 それだけです、神様――。

 あかりはそう祈って、最後に、今は会うことも叶わない、娘のりえの幸せを強く願って顔を上げた。

 元気にまた、人ごみの参道を戻ってゆく。

 途中で売られている、おみくじ――。いつも引いていたけれど、もう必要ない。だって、あかりは幸せなのだから――。未来に、なんの憂いもないのだから――。

「よしっ! がんばるぞっ! うん!」

 あかりは涙を拳で拭って、大きく息をすると、人ごみの街の中を泳いでいった。空にはぽっかりと、上弦の明るい月が輝き、あかりの明日を祝福していた。

**

 山本が入院している病室へと向かいながら、山本の身重の妻・奈緒子は、空を見上げた。大晦日の夜にふさわしい、美しい月だった。

 病院から夫の意識が戻った知らせを受けると、身重の体で矢も楯もたまらずに、一人タクシーで病院へと駆けつけた。

 病院のロビーを渡り、病棟の入り口にある小部屋の窓から、首を出して不審者をチェックしている守衛に、見舞いであることを告げる。

 守衛室の前に置かれたノートに、入る時刻と名前を書くと、守衛が、あ、と声を出した。

「あなた、山本亮一さんの家族?」

「え……? ええ、そうですけど……」

 奈緒子が、顔を上げる。

「荷物を預かっててさ」

「荷物……?」

「ああ。ちょっと待って」

 そういうと守衛は、足元から重そうにバッグを持ち上げた。出てきたのは、安っぽい、黒いスポーツバッグだ。奈緒子には特に心当たりがない。

 病室に着くと山本は、点滴を刺されたまま静かに眠っていた。やっと集中治療室から出て、一般病棟に移されたばかりだ。

 奈緒子は、その枕もとに、海外医療ボランティアのパンフレットを置いてやった。

(亮ちゃんの眼が覚めたら、きっと言おう……。自分の思うままに、生きていいよって……。やりたいようにやっていいんだよって、きっと言うんだ……。人生は、一度しかないんだもの……)

 奈緒子は、山本の顔を優しく拭いてやって、額にキスをすると、さっき渡された黒いスポーツバッグを開けてみた。そしてドサッと、床にバッグを落とした。

 中にあったのは、ぎっしりと詰まった札束だった。

「あ、うあ……! お、お金っ! な……! 何これっ……?! な、なんでこんなに、お金が?!」

 うろたえる奈緒子の背後から、かすかな声がした。

「郷原だ……」

「あ……、え……? 亮ちゃん、眼が、覚めたの……?」

 山本は、夢とも現ともつかない調子で、ぼんやりとつぶやいた。

「郷原だ、きっと……」

 山本は遠い眼をして、それを見た奈緒子も、泣きながら笑っていた。大丈夫……。やり直せる、きっと……。

 

エピローグ

 今年最後の大晦日の夜。新宿西口、小田急百貨店の並び。

 ここでいつも高台子を立てる、易者歴15年の霊泉先生は、あれ以来なんとなく落ち着かない。この間、トレンチコートを着て眼鏡をかけた、目つきの悪い大男にさんざ絡まれて、35万円ももらった霊泉先生だった。

 あの男がまたやってきて、カネを返せと言ってきたら、どうしよう……。あれ以来霊泉先生は、それが気になって仕方がない。

 しかしあの35万円はもう、家族に秘密で手を出した商品先物の尻拭いに使ってしまった。だから返せといわれると、困るのだ。

 仕方がないから霊泉先生は、もしまたあの男が現れたら、逃げるか、35万円分占ってやるかしようと考えていて、憂鬱だった。

 今日は誰もが来年の運勢を気にしそうな大晦日だというのに、なかなかお客がつかないので、霊泉先生はヒマにかまけて、仕方がなく、自分で卦を立ててみた。算木を、念を込めて振ると、陽・陽・陰・陽・陽・陰と出た。

(今日の運勢は、巽為風か……。いい事、悪いことの両方が訪れる意味の卦だわ。不意な訪問者を暗示する卦でもある……)

 そう思って、霊泉先生が顔を上げると、往来の向こうから、どこかで見たような景色が近づいてきた。

 べろべろに酔って、足が千鳥足になっていて、そして、背が高いトレンチ眼鏡男――。一瞬デジャブかと思って、目をしばたたいたが、見間違いではなかった。ま、まさか――。

「う、うわぁ!!」

 思わず腰を浮かして、逃げようとする霊泉先生よりも、男のほうが早かった。まるでサバンナで、群れからはぐれたインパラの子どもを見つけたチーターのように、眼が合うやいなや、徐々にスピードを上げて、近づいてくる男。

「なんらぁオバらん……。まらやってらんかここれ……」

 男は、崩れるようにそのまま、霊泉先生の高台子に突っ伏した。

「あ、あなた、この間はびっくりしたわよぉ~!35万円も置いていくんだもん……」

「んあー……。そうらっけ……。おれ、おろえてれぇ」

「お、覚えてないの?! あんた、35万も置いてったのに??」

「うん……。れんれん」

 男は、アルコールの巡りに苦しそうに、腹の底から呼吸していた。そして、酔って思考能力が無くなっているのか、60年配の霊泉先生に、妙なことを言うのだ。

「へんへぇ……。カネ払うから、俺と今からホテルいこ……」

「な、なんだとぅ??!!」

 この間もそうだったが、相変わらず言うことが突拍子もない男だ。

 霊泉先生は、顔を真っ赤にして、うろたえた。こんな親子ほども違う30代男に、ナンパされるだなんて……。

「俺、寂しいんらよ……。られれもいいから、一緒に寝て欲しいんらよ、   ◎ ✧ ❈ 〆 〄 ……」

 男は最後、とうとうろれつが回らなくなって、意味不明の言動をすると、崩れるように再び高台子の上に突っ伏した。

 それを見る霊泉先生。そういえばこの男は、家を飛び出していった自分の長男と、同じくらいの年齢だ。年の瀬にこんなになるまで泥酔して、この男の妻や家族は心配していないのだろうか。

「………………」

 霊泉先生は、なんだか事情があるのに違いないと思えてきて、お袋みたいに微笑むと、男の肩に自分のストールをかけてやった。こんなところで眠ったら、寒いだろうと思ったのだ。

 男はそのまま、しばし眠り続ける。こうして見ると睫毛が長くて、彫りの深い顔立ちは、酒のせいで色白の頬に朱が浮いて、寒風の中疲れ知らずに遊ぶやんちゃ坊主のようだ。

 しかし、これではお客を占えない。欲を掻いて、大晦日まで街占しようとしたのが、そもそも間違いだったかも知れない。

 霊泉先生はふぅ、とため息をひとつ吐いてから、魔法瓶を取り出すと、男の前に自宅から淹れてきたコーヒーを置いてやった。

 やがて、その匂いで目を覚ました男。ズレた眼鏡越しに、湯気の向こうにゆらめく霊泉先生を見た。そして、突っ伏したまま、泣きそうにか細い声を出した。

「なぁ、せんせぇ………」

「んー………?」

「占いって、楽しいの……? 占いって、信じているの……?」

「あんた、家族いないの?」

「え……」

 男は、その言葉にむっくりと体を起こして、先生を見た。霊泉先生は、相変わらずお袋のような目で、微笑んでいる。

「なんで……? なんでそう思うの……?」

「いや、あたしらときどき、ストレスのはけ口にされることがあるのよね。殴られそうになったり、怒鳴られたりね。占い師くらいしか、ストレスの持って行き場がない人なんだなって、おばさんはあんたのこと、そう思ったわけ。だから、もしかしたら天涯孤独な人なのかなってさ、お兄さんは」

「…………………」

 霊泉先生は飲みなと言って、冷め始めたコーヒーを勧めた。

「お代り、あるからね」

 男は、なんとなく親切にしてくれる霊泉先生に、とんがった心が少しほぐれてきた。じいっと、置かれた水筒のカップを見つめた。

 街は次第に、初詣客やカウントダウンで飲み明かす若者で、賑わいを見せ始めていた。男の背後で、盛り上がった若者たちが、未来に向けて一本締めの手を叩く。

「あらあんた、ずいぶんいい手をしてるじゃないの」

「え………?」

 ぼんやりと虚ろな男の手を取って、ライトにかざし、手相を観始める霊泉先生。なにせこの間、この男にもらったカネは、支払いで全部消えてしまったから、少しでも鑑定してやらないと申し訳ないと思ったのだ。

「あんたがくれたあのおカネ、遠慮なく使わせてもらったわ。だからこうでもしないと、申し訳ねぇべさ。今日は無料で占ってやる」

「ねぇ、俺の占いなんてしなくていいから、おばさんのこと聞かせてよ……。おばさんはどうして、占い師なんかやってるのかさ。占いを、信じているのか……。そこが俺、聞きたいんだよ」

 今度は霊泉先生が、ぼんやりと考え込んでしまう番になった。どうして、占いなんかやっているのか……?そう言われてみれば、まるで考えたことがない。霊泉先生にとって占いは、あまりにも自分の日常に溶け込みすぎていた。

「うーん……。そうねぇ、人様のお役に立てるじゃない? 人助けというか。占いで元気づけてあげられるというかさ」

「ふーん……。元気付けてあげられる、か……。元気づけて……」

 霊泉先生に対して、体を横に向け、往来を見つめたままボソリと呟く男。冥く、遠い目をしている。

「なぁ……。占いって、いったい何なのかなぁ、先生……」

「んあー……?」

「先生は今、人助けって言ったけど、俺、わかんねぇよそのリクツ。占いが当たれば当たるほど、人をむしろ不幸にさせていく……。世界中から占いがぜんぶ無くなっても、たぶん地球上の誰ひとり、生きるには困らない……。そんなもんで人助けなんてできねぇよ。先生が人助けできるのは、今、俺をここに居させてくれた優しさだろ? 占いなんかなくったって、先生はちゃんと助けてるんだよっ」

 男は、温かい水筒のカップを手にしたまま言った。言っているうちに声が震えて、涙が目尻に滲んでいるのが見えた。

「だから、お願いだからそんな悲しいこと、言わないでくれよっ……。先生みたいないい人が、占いで助けるなんて悲しいこと言うなっ!! 言うなよっ!!」

 霊泉先生は、急に豹変した男の顔を見つめた。

 そして、彼の言った言葉が飲み込めなかった。

 いや、心が、たましいが、その言葉を解釈することを拒絶していたのかも知れない。なぜなら、自分は占い師だから――。

 占いで深層心理がわかり、占いで人の本音もわかり、占いで未来がわかるという前提になっている者だから――。

 目の前にいる人間がたとえ苦しみを訴えても、占い師はまず、それが命式なり、ホロスコープなり、手相なりに出ていなければ、その人の言うことを信じられないのである。現実の、人の痛みや感情よりも、占い理論のほうが大切な人種なのだ。

 いや、本当はわかっていても、占いをしている自分を手放さない限り、けっしてそのことを真正面から考えることはできない。

 考えてしまえば、たちまち自己矛盾に陥ってしまう。占いの閉じた世界でいつまでも遊びたければ、思考停止でいるしかない――。

 たとえそれが、自分のたましいを欺くことになっても。

 男は立ち上がると、肩をすくめて、そんな霊泉先生を、許すような優しい目で見下ろしていた。

「先生……、ごめん……。ちょっと俺、言い過ぎた……」

 男はそういうと、セカンドバッグから札束を取り出して、それをまたこの間のように、バサッと、高台子の上に放り出した。

「ちょ! ちょっと! 要らないわよこんなもの!!」

 立ち上がり、札束を掴むと、男の胸元に突っ返す霊泉先生だった。

「いいよ先生……。先生にやる。俺、そんな汚らわしいもの、持っていたくねぇ……。姉ちゃんの入院代だけあればいいんだ、俺には……。カネなんか要らねぇ……」

 そうつぶやく男の眼に、ゆらめく狂気――。さっきまでの遠くを見ていた眼差しは、こうして胸元に近づいて改めて覗くと、ぞくりとするような氷の刃がギラついていて、とても恐ろしい眼だった。

 男の瞳孔の底に、それを確かに見た霊泉先生は、急に金縛りにあったように動けなくなって、ガタガタ震えると、札束を手にしたまま固まってしまった。

 男はそのまま、ふらふらと歩き、青梅街道へ――。青梅街道の大スクランブルの手前を右手に曲がり、ホームレスが横たわる大ガードを抜けて、靖国通りへ。そこをさらに右手に向かって、男は気がつくと、新宿アルタ前に出た。

 聞こえてくるのは街宣車のスピーカーの、ヨハネ黙示録による最後の審判。あなたがたが裁かれるのは近いと、必死に訴えるキリスト教系新興宗教の声。

 そしてその背景にセットされた、スタジオアルタの大型ビジョンでは、来年の運気を占う12星座ランキングが、明るくポップに意味も無く、誰のためでもなく、なんの必要性もないままに、ただ垂れ流されていた。

 男は耳を塞ぐ。唇を噛み締める。肩も背中もぶるぶる震わせていた。やめろ、やめろ、やめろ、やめろ――――!!!!

 絶叫―――。声を張り上げた。

「占いなんてウソだっ!! 占いなんて人でなしのすることだっ!! お前らは狂ってる!! 希望と欲望で狂ってる!! この狂人どもっ!! うわああああ!!!」

 男の叫び声は、周辺にいた数人、十数人を振り向かせ、驚かせはしたものの、宗教団体の街宣にかき消されて、ただ、それだけの効果しかなかった。

 街の中でただひとり、肩を震わせ、拳を握りしめる。

 誰もが、醜い欲の塊――。死と損失を忘れた者ども――。

 人はいつか、カネも愛も夢も、この身さえも、みんな失うのだ。

 そう考えれば、占いなど無意味だ。

 無意味だっ!!

 こんな無意味な地獄の中で、この先も生きてゆくしかない俺を、誰か助けて――。助けてよ誰か――。

「北山っ!!」

 男は悲痛な眼をして、顔を上げて、始めて好きになった女の子を人ごみの中に探したけれど、彼女はもう、どこにもいない……。

 男は、とぼとぼ歩いた。まっすぐに、喧騒から離れて――。

 男の頭上には、ネオンに霞む幽幻の月――。天文学者ケプラーは言う。人間は空を仰ぐ動物だと。心理学者ユングは言う。魂はみんな、深い共通の無意識で繋がっていると。

 だから、人が天の中に意味を見出そうとしたとき、天の兆しは地上に反映されるし、人がイメージの中に意味を見出そうとすれば、それは意味のあるものとして無意識に語りかけると。

 でも、いくら星のシンボルを調べても、意識すらできない無意識を心の中に探しても、どうして自分が生まれてきたのか、どうしてここにいるのかは、やっぱりまるでわからない。

 狂ったように悲しく酔った男は、そのままとぼとぼと歩きつづけて、都会の公園に着いた。冷たいベンチに、体を横たえる……。

 人類が月に降り立ってからこの方、科学や経済の発達で人は、神秘から自由になったのだろうか。それとも、神秘から隔離されて、余計に不幸になったのだろうか。

 しかし、星座を見ても、手相を観ても、タロットカードを並べてみても、心理分析してみても、人間のことはちっともわからない。

 生きることの苦しさには、まるで答えてくれない。

 占いって、いったい何のためにこの世にあるんだろう。

 何でこんなに世の中に、溢れているんだろう……。

 俺には、わからない……。誰か、教えてよ……。

 遠くに、除夜の鐘の音。人々の欲深い、カネや地位や名誉や、愛欲のとぐろを、賽銭とともに飲み込んで、聖なる鐘の音が鳴り響いていた。

 VICE-ヴァイス-孤独な予言者  
       《完》

 

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