第三十話 CHAPTER10、占い結果(2)
試合開始まで、残り25分――。
赤坂シンフォニーホテルの最上階、1泊120万円の、ロイヤルスィートルーム。
志垣智成はその部屋に置かれた、ゆったりしたソファで、ふんぞりかえってシェリーを飲んでいた。
「フフ……。わくわくしますねぇ、占い賭博……。競馬や競艇、マカオのカジノなど目ではないほど、楽しいゲームだと聞いてはいたが、まさか、ここまでどきどきするとは……」
その言葉を、遠い眼をして聞き流す郷原。リビングに大型テレビモニターを置いて、試合開始を待つ志垣たちだった。
その志垣はもう、勝った気になって、ふんぞりかえると、隣にいる郷原の肩に手を回すような仕草をしていたが、郷原は無表情なまま、刃物のような眼をして、まっすぐ前だけを向いていた。
テレビモニターは今、裏デスの特設リングと、その周辺にバラバラと集まっている見物人たちを、固定カメラで映している。リングを取り囲むように、幾重にも、黒い頭と折りたたみ椅子が見えた。
会場の生の音声も、わりとマイクが拾っているから、普通のボリュームの話し声だと聞こえないけれど、野次の大声なら、すべてここにも聞こえてくるはずだ。
スタッフたちは、ぞくぞくと集まってくる、郷原の占い予想への賭けの状況を集計して、オッズにしていく作業に追われていた。あと10分で占い賭博の投票は、締め切りなのである。
裏デスの、本当のスペシャルイベント――。ハンデボクシングが一般会員向けの見世物であるのに対し、ネット会員は郷原の占いが当たるか、外れるかこそを賭けにして楽しむ。本当は、こちらで動くテラ銭のほうが、莫大な利益を生んでいるのだ。
裏デスはひとえに、郷原悟の占い賭博を成立させる実験場――、ゲーム盤のようなもの――。
今夜の占い賭博、一番人気は、“勝者のみ的中”であった。つまり、郷原の占い通り、試合自体に勝つのは池田原口コンビだけれど、山本が倒れるとかいう予想は当たらないだろう、という予想だ。
「フフフ……。相変わらず、賭場では人気者だな郷原。会員専用闇のコミュニティサイト、“裏デス掲示板” には今、お前を支持する書き込みが、何百通と寄せられている。昔のオグリキャップみたいだ。応援馬券ならぬ、応援占い券が、飛ぶように売れている……」
部下が操作するパソコンの手元を覗きながら、紳士風の顔だちの寺本が、嬉しそうに呟いた。
「そりゃあどうも……」
ぶっきらぼうに返事をして、シェリーを煽る郷原だった。
ちなみに、2番人気は、“勝者・状況ともに外れ”であった。やはり、橋爪勝利は揺るがないし、その他の状況だって、セコンドの山本が倒れるなんかあり得ないよ、という見方。
以下、“勝者・状況ともにパーフェクトに完全的中” が3番人気、“勝者は外れるが状況だけ的中する” が4番人気、そんな勝ち馬投票券ならぬ、“勝ち占い投票券” の売れ行きであった。
モニターの中には、すでにセコンドの山本と、池田が映り、原口と橋爪はもう、それぞれのコーナーに寄って、膝をほぐしたり、肩をほぐしたりしている。
こんなアングラな地下の、薄汚い賭場である。選手入場の華々しい花道など、あろうはずもない。まるで田舎町の高校のボクシング部みたいに、少し無様な感じで、淡々と原口、橋爪は、試合が始まるのを待っていた。
「しかし、郷原さんは立派だ。私は、占い師などという連中は、どいつもこいつも無責任だと思っていました。でも、郷原さんは違う……。こうして、自分の占いに責任を持つのだから、あなたは立派だ。おためごかしの占い師どもは、みんな郷原さんの姿勢を見習うべきです。これでこそ、ウソのない態度というもの。世間の奴らは生ぬるい。郷原さんみたいになれないのなら、取り締まるべきだ、占い師など……。国家公安委員会はなにをやっているんでしょうかねぇ、まったく。こんな社会悪を取り締まらないのですから……」
志垣はすでに酔って、上機嫌だった。占い賭博の予想自体が終わっているから、あとは楽しく結果待ちをするだけだ。すでに勝った気になっているのか、黒服におかわりを注がせた。
郷原は、ただ静かに絶望していた。コートの内ポケットに、いつでも手をかけられるよう、意識しておく。
(やっぱり、山本が自害するなんてあり得ない。ましてや原口が、なんの恨みもないはずの山本を刺すだなんて、あり得ない――。あのビジョンは、ウソのビジョンだ……。北山に心が傾いた俺が、戸惑いで瞬間、垣間見ただけの、偽りの未来――)
拳銃のある位置を、しっかりと把握する。占いが外れた瞬間、この連中の目を盗んで俺は、心から笑って、弾丸を一発頭にブチ込むのだ――。
やがて、会場のざわめきが収まった。すべての作業を終えたスタッフが全員、後ろ手に手を組み、モニター席の後ろに控える。全員が、大型の液晶画面を見つめていた。
画面の中に、マイクを手にした城乃内貴章が現れる。一緒にいるのは、バーテン風の、黒服男。城乃内は、少し黒服と言葉を交わしてから、マイクを黒服に渡し、自分はリングから離れたバーカウンターのほうへと移動した。そこでゆったりと城乃内は、試合の成り行きを見物するつもりなのだろう。
この会場にいる者たちは、郷原悟の占いの内容を知らない。郷原が、勝つのは池田と原口だが、妙な勝ち方をして、山本がなぜか死ぬような目に会うという占い予想を出したことを、全員が知らない。
当然、城乃内も――。赤坂の占い賭博会場と、六本木のデスマッチボクシング会場は、完全に隔たれていた。
やがて、ルールの説明が、黒服より行われる。試合は、1ラウンド2分、インターバル1分の、ラウンド無制限デスマッチ。
1ラウンドのゴングが鳴った瞬間、山本は、そのラウンド中、橋爪が殴打する回数を決める。ボタンを押さない、という選択ももちろんありだが、上限は1ラウンドにつき20回まで。
一方の原口は、ラウンド開始前に獲物を選択。途中で獲物を持ち替えることは出来ない。ヒットアンドアウェーである。つまり、一度橋爪に命中したら、連続技を繰り出してはいけないことになっていた。池田は原口の刃物なり、木刀なりがヒットしたら、青い札を出すか、それとも出さないかを決めるることができる。
青札が上がらないときはストップ。これ以上攻撃するなの意。青札は、そのまま攻撃しつづけろの意。一度上げた青札はラウンドが終了するまで変更できない。だから、一度出してしまったら、そのラウンド中原口は、橋爪に対して背中を向けることができなくなる。もし向けてしまえば、ペナルティとして、次のラウンドは獲物を使えないというルールだった。
ぼんやりモニターを眺めていた郷原の眼に、黒服がルールを読み上げたあと、山本が手を上げる様子が映った。思わず視線が止まる。
「おい、聞こえないぞ音声! 山本の声を拾えっ!」
「は、はいっ……!」
郷原の怒鳴り声に、すぐにアンプに繋いだコントロール・パネルを、微調整するスタッフであった。ツマミを回し、ケーブルを確認して、なんとかソファの郷原たちに、リング周辺の音声が流れて来た。かなりノイズ交じりで、聞き取りにくかったが、山本はルールの確認を取っていたようである。デスティニーのスタッフからマイクを受け取ると、口元に近づけて発言していた。
「……………と、いうことですか?」
山本の声だ。
「ああ。そうだ。セコンドが試合を降りるとか、辞めるといったことは認められない」
「そうですか……。じゃあ、試合はどうしたって、やるしかないんですね……」
「当たり前だろ?この期に及んで、降りるなんてこと許されるわけないだろう」
さも当然といった感じで、黒服が言う。
「そうだ! ここまで来て中止だなんて、寝言言うなボケ医者!」
野次る観客の声を背中で受け止めて、山本は猶も食い下がった。
「じゃ、じゃあ、たとえば試合中、酔ったお客さんに襲われたりとか、心臓発作が起って倒れたりして、セコンドの僕や池田さんが戦えなくなったら……? そのときはルール上、どうなるんです?」
「そんなこと起こるわけないだろう。なにくだらないことを聞いている」
黒服が、バカにしたように切り返したが、それでも、そこから逃げない山本だった。
「いいや……! 未来のことなんか、誰にもわかるもんかっ! ここにいる誰が、10分後に急な心臓発作を起こさないと言い切れる?! 大地震が起らないと言い切れる?! どうなんだよっ! ええ?! セコンドにもしものことがあったら、試合は続行なのか、それとも中断なのか、きちんと明確にしろっ!」
会場が、ざわめいた。黒服は判断に困って、支配人城乃内のほうを見た。すかさず、会場内のスタッフが、バーカウンターに腰掛けてリングを見ていた城乃内の元へと走り、マイクを向ける。城乃内は、おいおい……!と少し注目されたことに照れたように肩をすくめると、マイクに口を寄せて発言した。
「そうだな。まぁ、セコンドにもしものことがあったら、そのときは相手チームの勝ちってことでいいんじゃねぇのか?」
「そうですか。わかりました。セコンドが続行不能になれば、試合は終わって勝敗もつくと。そういうこと……。フフ……。了解です」
ようやくこれで気が済んだのか、山本は静かにマイクをスタッフへと返すと、橋爪のいるコーナーポストの下に、腰を落ち着けた。
山本をなだめるように、橋爪がなにやら囁きかける。やはり、マイクの音声は拾うが、普通の会話というのは聞こえない。
たぶん橋爪が逆に、山本に指示を与えているのだろう。落ち着けとか、恐れるなとか、そういうこと――。橋爪のほうが、山本をリードしているのがわかる。やはり、チャンプの矜持なのだろうか。
橋爪は、モニター越しに見る限り、落ち着き払っていた。
やがて、野次や口笛、拍手が響いて、ついに第一ラウンドが始まった。志垣も寺本も、モニターを食い入るように見つめている。
郷原は、モニターの前にいるのが辛くて、立ち上がると、ひとり窓辺へと向かった。
ふと、傍らに人影――。夜景を見つめていた郷原の隣に、川嶋が立っていた。
「すまないな、郷原……」
「………………」
「お前に、こんな苦しい稼業をさせるなんて、本当にすまない……。俺は……」
川嶋の沈痛な声に、郷原は寂しそうに微笑んで、首を少し左右に振ってみせる。
「なぁ、川嶋さん……」
「ん………?」
「タバコ、もう1本ちょうだい」
「なんだ……。今夜はやけに吸うんだな……。いつもタバコなんか、大嫌いなくせに……」
そういって、スーツの胸ポケットから、いつものパーラメントを取り出した川嶋は、1本郷原にやって、カルティエのライターで、穂先に火をつけてやった。その煙を、ゆっくりと肺の中へ吸い込んで、夜景を見つめたまま郷原は言った。
「………カネ、だいぶ貯まった……?」
「ああ。お前との約束が果たせるのも、もう少しだ……。カネ貯めて、平安ファイナンスの株をすべて買い戻したら、お前と二人、ヤクザなんかから足を洗って、まっとうな銀行家を目指そうって、そう、約束したもんな郷原……。もう少しだ。そうしたらお前はもう、こんな稼業なんかしなくて済む。誰からもバカにされない人生を、日の当たる人生を、やっと胸を張って生きられる……」
「うん……。そうだね……」
息子みたいな顔をして、郷原は、夜景の中にぼんやりと映るガラス越しの川嶋を見つめていた。少し間を置いてから、郷原が呟く。
「川嶋さん……。久子ママのこと、幸せにしてやってよ」
「ああ………?」
「俺、あの人が泣いてるの見るの、辛いんだ。久子ママにはいつも元気で、俺のこと、叱ってて欲しいんだよ。あの人俺の、もう一人の姉さんだから……」
川嶋は、本当は気づいている。郷原が、久子のことを、ずっと前から女として愛しているのだということを……。
「ねぇ……。この占い賭博が済んだら川嶋さん、久子ママとちゃんと、子ども作りなよ」
「な、なに言ってんだ、こんなときに……」
「俺、わかるんだ。久子ママは本当に、子どもを産んで育ててみたいんだって。かわいそうだよ。川嶋さんだけを支えて、川嶋さんだけを見て生きてきたのに、子どもも授けてもらえないなんて……」
「そ、そりゃあお前、俺だって、考えてないわけじゃねぇけどよ……。でももう久子も、年齢が年齢だからなぁ……」
そういって、しきりに照れる川嶋を、やっと郷原は振り返った。
「女ってね、男が、抱いてやらないとダメなんだってさ。そういう、生き物なんだって。ちゃんとママのこと、抱いてやってよ川嶋さん……。あの人は、それだけでいいんだからさ。川嶋さんのことが、本当に大好きなんだよ」
「………………」
なんだか、別れの言葉のようだった。遺言……。そんな風な寂しさ――。川嶋は、唇を震わせていた。
「まさかお前、今夜は敗れるとでも……?」
その問いかけに、郷原は眼を伏せて、寂しそうにうつむいた。
「わからない……。でも、山本を助けてやりたい……。山本を無事に、家族のところへ帰してやりたい……。俺は、どうしたら……?」
「………………」
黙り込む川嶋だった。本当は川嶋も、山本が平安ファイナンスに作った借金など、許してやっても良かった。山本は、もうじゅうぶんカネを落としてくれたのだ。占い賭博に参加してくれるだけで、平安ファイナンスと寺本組は、何億と儲かるのだから――。
そう思えば、川嶋もまた、山本を無事に帰してやりたい気持ちは同じである。
しかし……。組がそれを、どう思うか……。特にカネが大好きな、あの寺本の親父……。もう山本に、診断書をたくさん書かせるつもりで、あれこれ用意を始めているはず――。
「だが郷原……。お前は、自分の占いに干渉することは出来ないぞ……? ここで山本の無事を祈るしか……。しかし、山本が無傷で勝利すれば、お前の人生は志垣のものになってしまう……。俺は、そんなこと信じない。今度もきっとお前の予知は当たる。俺は確信している。山本はきっと、お前が言うとおり……」
川嶋が、そう言った瞬間だ。おおおっ!! というどよめきが、モニターを見つめている寺本、志垣、スタッフたちから上がった。
その声に驚いて、慌てて川嶋と郷原は、大型モニターの前に駆けつけた。画面の中――。固定カメラ数台で撮影しているだけでは、どうにも具合がよくない。状況が掴みにくかった。
「どうしたんだっ!」
川嶋が、側に立っていたスタッフの、浜崎慎吾を問い詰めた。
「そ、それが……。原口の獲物が、すり替わってたんスよ!!」
「な………、なんだと……?!」
川嶋の顔が、見る間に青ざめる。郷原も、目を剥いていた。
「今、3ラウンドがどうにか終わって、4ラウンド目に入ったんですけど、原口がやっと獲物を竹刀から、短刀に持ち替えたんです。それで、おおっ!と思って、食い入るように見ていたら、なんか、それがただの筒だったみたいで……」
モニターに首を向けると、確かに、青ざめて、焦りきった顔で、必死に怒鳴っている池田と、妙な黒い筒でひたすら空を裂き、逃げ惑う原口の姿が見える。
(あ――………!!!)
その瞬間、郷原のたましいは、神のいかづちに打たれたように、すべてを読み通したのだった。
「わかった! 読めた!山本はやっぱり、自害するつもりなんだっ!!」
「な……、なんだとっ?!」
全員が、郷原のほうを一斉に振り返る。
「山本が、自分ですり変えたんだっ! ドスをっ……! 自分でケリをつけるために……!! あの死相は、そういう意味だったっ!!」
郷原はたまらず、まだ濡れているトレンチコートを翻して、駆け出していた。ロイヤルスィートルームのドアを開けようと、施錠に手をかけたとき、スタッフが数人、止めに入った。
「ダメです! 先生は会場にいけません! そういう決まりです!」
「うるさいっ! 離せよっ! 早く止めないと山本がっ!!」
川嶋がたまらず、郷原に味方した。
「わ、私からも頼みます! 山本を、救ってやってください、今回ばかりはっ!」
床の上に手をついて、寺本厳と志垣智成の足元に、額をこすりつける川嶋だっ
た。
「志垣さん……、おやっさん……。お願いだ! 郷原を行かせてやってください……。落とし前が必要なら、この私が……! どうか郷原の気の済むように……!」
「し、しかし……」
うろたえる寺本である。意外にも、志垣が乗り気な声を出した。
「いいじゃないですか、寺本さん。私も、この目で直接、試合を見届けたくなりました。我々も会場へ急ごうじゃありませんか。もうここまで来たら、郷原も運命には干渉できません……。行かせてやりましょう。自分の予言が死をもたらすその瞬間を、見届けさせるために……。ククク……!!」
志垣の眼が、血走っていた。
「う、ううっ、わかった……。行けっ!! 今回は特別に許そう」
郷原は、矢も立てもたまらず、ドアを開け放つと、駆け出していた。その後を追う浜崎と、川嶋だった。
「フフフ……。では、我々も参りましょうか寺本さん……。年寄りは、タクシーでね」
志垣が、寺本に狡猾な笑みを見せた。
「あ、ああ……。そうですな、志垣さん……」
寺本厳は頷いて、自分たちもホテルのスィートルームを後にした。
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