第二話 CHAPTERⅠ、詐欺(1)
金色のオーデ・マ・ピケの腕時計が、午後4時を示していた。平安ファイナンスの社長用デスクで、川嶋貢は、部下からの連絡を待っていた。
「そろそろだな……」
呟いて川嶋は、事務の女性が淹れてくれたお茶をひと口啜る。と、その時、デスクの上の電話が鳴り出した。それをすかさず取り上げた。
「おう、どうだった?」
「やはり今日中の入金は、確認できませんでした。親父のほうは万策尽きたようで、さっきから百瀬公園のベンチで、惚けたように座り込んでます」
電話をかけてきたのは、平安ファイナンスの若手社員、浜崎慎吾だ。
「村井から連絡は?」
「はい。村井の話では、息子の亮一のほうも、午前中は、どこかにしきりと電話をしていたそうですが、こちらも手立てがないまま、今、駅前のコーヒーショップで呆然としているそうです」
「そうか。ぼちぼち、確定の赤ランプってところだな。他のハイエナどもが敏感に、山本が飛んだのを嗅ぎ付ける前に、息子の亮一に会いたい。浜崎はすぐに、村井と合流して、息子の亮一のガラを、押さえに行ってくれ。親父のほうは渡辺に任せよう」
「わかりました」
浜崎が、川嶋に切れの良い返事をした。ガラとは、身柄のことである。この業界では不渡りが出る公算が高まると、どこの業者がいち早く本人たちを捕まえるか、というのが肝であった。本人を早く捕まえて、借金返済の絵を描かせるというのと、逃亡を未然に防ぐという目的があるのだ。
「でも社長、どこへ連れていきますか? やはり、自宅へ?」
「そうだな……。とりあえず親父のほうは、家に帰るまで張りつづけろ。こうなったら奴さん、債権者が押しかけてくる前に、少しでも金目の物を処分して、夜逃げの算段をするはずだ。絶対に自宅へ帰る。そこを押さえるように渡辺に指示を出してくれ」
「息子のほうは、どうします?」
「そうだな……。息子は医者だ。いろいろ利用価値がある……。場合によっては借金の返済の相談に、乗ってやらなくもないとけしかけて、ここへ連れてきてくれ」
川嶋は、手元に置かれたボックスから、メビウスのカートリッジを一本取り出して、加熱式たばこのホルダーで火をつけた。
「え? 返済の相談って、いいんですか社長。そんな甘いこと言って」
「ああ。いいんだ。山本次第では、本気で借金の棒引きを考えてやらなくもない。ただし、郷原と相談してからだがな。郷原に、山本の身の振り方を描いてもらう」
「ああ、なるほど。郷原先生の元へ……。なら、甘くないですねむしろ。郷原先生の取り立てのキツさは、業界でも評判ですから。ということは、また、例のゲームのリクエストが来た、ってわけですね。それに、山本を充てようと……」
「お前は余計な想像をしなくていい。とにかく亮一は、ひとり息子のお坊ちゃまだけあって世間知らずだ。山本亮一が非常に扱いやすいタイプであることは、間違いない。すぐにここへ連れてきてくれ」
「わかりました」
川嶋は、浜崎の返事を聞くと、受話器を事務用電話器に戻して電話を切った。それから、肺に吸い込んだ煙を鼻からゆっくり吐き出した。
(さて……。今度も郷原がどんな絵を描くかな。どちらにしろ山本亮一には、堕ちるところまで堕ちてもらわなきゃならんか……)
川嶋は紫煙をくゆらせながら、革張りの椅子を回転させ、自分のデスクの背面にあるブラインドを覗いた。莫大なカネが転がり込む予感に、高鳴る胸を落ち着ける。真冬の夕日が、筋向いのビルとビルの間を赤く燃やしていた。ほどなくして、再び浜崎からの電話が入った。
「社長、山本亮一のガラ、確保しました。今から帰社します」
「わかった。丁重にご案内しろ。丁重にな」
そういって、瞼を薄く閉じ、遠い背後の夕日を見つめる川嶋。今夜はとても、長い夜になりそうだ。
**
「どうなんですか? 山本さん……」
「……………」
浜崎と村井に、コーヒーショップで声を掛けられた山本亮一は、抵抗する元気もないままに車に乗せられて、とうとう平安ファイナンスの応接室へとやってきた。応接室とはいっても、4枚のパーテーションで仕切られた空間に、応接セットが置かれただけのものである。
そこに座らされた山本は、悪い夢でも見ているような気がしていた。いったいなぜ自分は、こんな場所に居るのだろう。もう自宅が差し押さえの対象となり、自分と父親の背中には、重いと言うにはあまりにも重過ぎる7億円近くもの借金があるだなんて、未だに信じられない。さっきからやたらと他人事のような気がしていた。
目の前にいる、恰幅のいい、迫力のある中年男や、自分を取り囲んでいる茶髪の若い男などがみんな、スクリーンの中の出来事のようだった。
「聞いとんのか、ワレェ!!」
「あ! ああ、ハイ! す、すみません……!!」
「おい浜崎、まだお客様だ。粗暴なことはするな」
「す、すみません社長っ! ですがこの方、先ほどからどうも、我々の話を聞いていないみたいで……」
貸金業規制法が改正されて以来、借金の取り立て方法にも、かなり神経を使うようになってしまった。殴ったり、蹴ったりということはもとより、怒鳴り声だってあまり頻発させると、恫喝行為ということで、コンプライアンスに引っかかるご時世だ。
川嶋は、ソファにぴたりとつけていた背中を起こすと、シガーボックスの中からタバコのカートリッジを取り出して、加熱式タバコの着火キャップで火をつけた。穂先をじりじり燃焼させて吸い込んだ、ずしりと重たい煙が、川嶋の酷薄そうな唇から拡散されていった。
「では山本先生……。ご実家の山本ビルは、どうしても手放したくないと、そういうことですか?」
「は、はい!! あの通り両親には、あのビルだけが最後砦なんです! な、なんとか、それだけは……。それだけは、勘弁してください……! 両親を、いまさらあの歳で、路頭に迷わせるわけには……。僕がどうにか働いて返します! お願いです、信じてください!」
山本は、必死に川嶋に懇願した。
「しかしですねぇ、あなたは今、無職じゃありませんか。確か病院をご開業なさるというので、去年勤め先の、杉の木坂総合病院を退職されていますよねぇ? 我々としても債権の回収に、そう時間をかけたくはないのです。時間をかければかけただけ、損に繋がってしまう……。だから、あなたの就職を信用して、ご返済を猶予することは出来ません。それに、明日にでも働く場所が見つかりますか? 見つからないでしょう? ねぇ?」
ゆっくりと山本を諭す川嶋のその声は、穏やかではあるが、眼光の鋭さとがっしりした厚い体躯が、威圧的だった。その静かな迫力のせいで、山本はうつむいたまま、何もいえなくなってしまった。
「ま、そんなに担保を差し出すのがお厭なら、手立てがないわけでもありませんよ……?」
「ほ、本当ですか?!」
「フフ……。あなたは、一応は医者だ。なんなら、架空の診断書でもお書きになりますか? その手のアルバイトをお望みなら、ご紹介してあげなくもない。1枚作成すれば、数百万円だ。ただし、バレたら一発で医師免許剥奪、公文書偽造容疑で、下手をすれば実刑喰らいますけどね。それでも良ければ」
「……………」
「何とか言えや、コラ!」
黙りこくってしまった山本に、苛立った浜崎が声を荒らげた。川嶋は浜崎を右手でけん制すると、左手首の腕時計に目をやって、おもむろに山本に切り出した。
「もう、話し合いもかれこれ1時間になります。場所を喫茶店にでも変えましょうか。浜崎たちは、通常業務に戻ってくれ。私と山本さんで話し合うことにしよう」
川嶋は、そう言うと立ち上がって、携帯電話をスーツのポケットに入れ、山本を促した。
「浜崎、いつものシュベールに居る。山本さんと話し合いがついたら電話を入れるから、お前は社で待機していてくれ」
「はい!」
浜崎は、敬礼でもしそうなくらい背筋を正して、川嶋にキレの良い返事をした。
「では、参りましょうか、山本さん」
「は、はぁ……」
山本は、これからどんな目に遭うのだろうと、不安で足元がよろけたが、川嶋に促されるままに立ち上がると、川嶋の後ろについていくしかなかった。
「行ってらっしゃいませ!!」
平安ファイナンスの茶髪社員たちが、威圧感たっぷりの姿勢で、オフィスから出ていく川嶋と、山本を見送っていた。
**
新大久保に程近い、新宿百人町界隈の、コリアンタウンにある平安ファイナンス。
そのテナントが入居している平安第一ビルの、道路を挟んだ筋向いに、小さな喫茶店 “シュベール” があった。川嶋は、客と話をするときには、いつもそこで行うのだ。その店の窓際の、一番奥のテーブル席に山本を案内すると、川嶋はアイスコーヒーを二つと、サンドイッチを二つ頼んで山本に勧めた。
「もう夜ですからね。お腹も、減っていらっしゃるんじゃないですか? 良かったら、サンドイッチでもつまんでください」
川嶋はいいながら、胸のポケットから加熱式タバコを取り出し、口に咥えて火をつけた。
飴と鞭――。こうして、食べ物を勧めるというのは、こちらもも鬼じゃないと相手に伝えるためのポーズだ。食べ物や飲み物を出してやると、それだけで相手は、この人は話がわかるかも知れないと誤解するのだ。
ずっとうつむいていた山本が、席についたとたん、顔を上げた。
「あ、あの……」
「はい、何でしょう?」
「ぼ、僕も、一服していいでしょうか」
「ああ。もちろんです。どうぞ遠慮なく」
山本はそれを聞くと、リュックからキャメルを取り出して、口に咥えた。医者というのは、極度の集中力と、責任が伴う重たい仕事のせいか、喫煙者が非常に多い職業でもある。さっきの平安ファイナンスの応接室では、とてもタバコを吸わせてくださいと、言い出せるムードではなかったから、山本はしきりとニコチンが恋しくなっていた。夢中で煙を肺に注入する山本を、川嶋は紫煙の向こうで冷ややかに観察しながら、ゆっくりとした口調で話し始めた。
「正直、ウチだけじゃないでしょう? 山本先生……」
「え……?」
「借金ですよ。借りてるの、ウチのぶんだけじゃないでしょう?」
「は、はぁ……」
川嶋は精一杯、同情的な顔を浮かべて、山本の現状を聞き出すポーズを作ってみたが、もちろんこんなものは猿芝居だ。川嶋は山本の負債が今、どこに、いくらあるのかということは、聞かなくてもすべて把握している。なにせ山本の父親、山本敏夫と、息子の亮一を借金まみれにさせたのは、最初から平安ファイナンスなのだから。
ことの経緯はこうだ。今から1年半ほど前――。
**
東京都杉並区某所にある、甲州街道に面した山本の実家、山本ビルは、築50年は経っているだろうというようなビルであったのだが、そこの1階が小さなスナックになっている。
そこに、寺本組の末端系列企業であるおしぼり屋が、おしぼりや氷を納入しているのだが、納品にいつも行くのは、渡辺という若い男だった。この渡辺、実は平安ファイナンスの若手社員、浜崎慎吾の、半グレ時代の後輩なのである。
渡辺は明るい性格で、人から好かれる性質だったから、すぐにここのママさんや従業員と親しくなった。そして、この山本ビルが今、借主と、家主である山本敏夫との間で、建て替え問題に揺れているとの話を聞きだすと、それを兄貴分の浜崎に教えたのだった。
浜崎はこのとき、歌舞伎町のホストクラブから、平安ファイナンスに転職して2年目を迎えたところ。早く手柄を立てたくて、気持ちが急いていたから、この山本ビルをカモに出来ないかと、自分の社長である川嶋貢に、相談を持ちかけた。
浜崎のシナリオを聞いて、川嶋は悪くないと直感した。そこで、自社の顧問に相談してみたのである。
「この山本ビルの裏手は、去年までクリーニング工場だったんだが、今は更地になっている……。この山本ビルをどかしちまえば、それなりの広さだ。さらにラッキーなことに、この山本ビルはもう何年も前から、入居者と家主の間で、建て替え問題が起っているらしい……。そこに、付け入るスキがねぇかとな」
「つまり、地上げをやれないかってこと……?」
平安ファイナンスのフロア奥にある、秘密めいた重役室で、爪楊枝を噛みながら、川嶋貢の話を聞いている男がいた。
「ああ。この界隈に近々、図書館を建設する計画があるらしい。この山本ビルの辺りが、候補地の一つに上げられている。だから、俺たちがある程度土地をまとめてやれば、建設を請け負っている第三セクターが、飛びつくんじゃないだろうかと思ってよ」
「ふーん……。そのビルの登記簿は?」
「これだ」
デスクで川嶋の話を聞いていた、フチなし眼鏡の30代男は、川嶋から問題のビルの、登記簿のコピーと、ビルオーナーの山本敏夫、息子の亮一の生年月日が書かれたメモを受け取ると、おもむろに、手元のノートパソコンにデータを入力して、星の軌道を計算し始めた。
そう……、この男こそ、天才占星術師と闇社会で恐れられている、寺本組の若頭補佐、郷原悟なのだ。郷原は、川嶋の補佐役であるとともに、平安ファイナンスの専任顧問も務めている。ただし株式は所有しておらず、代表権は持たないから、会社の運営には参加できないのだが、それでも、あまりに当たるその占いのせいで、今や平安ファイナンスと社長の川嶋は、郷原の意見なしには、やっていけなくなっていた。
郷原はときどき、気が向いたときだけ出社してきて、重役室に詰めている。そして、客への融資が成功するかどうか、どんなカネ目の絵図面を描けるか、策を巡らせ、人の秘密を炙り出し、投資家や企業家の相談を聞いてやるのが、主な仕事だった。
ディスプレイに浮かび上がった、星々の軌道を見つめながら、郷原は、おもむろに言った。
「なんだ。もう時間の問題だな、この親子……」
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