CHAPTER6、黒い龍(2)

 

 朝になり、田代が郷原のホテルの部屋を訪ねてみると――。

「うわぁッ!! な、なんじゃこりゃあ!!」

 田代は、のけ反るほどに驚いた。郷原がブツブツと、幽霊みたいに何事かつぶやきながら、天体暦と首っ引きで、壁に貼り出した関東一帯の大拡大地図に無数の黒い点をつけていたのだ。まるで、恨みを込めながら呪いの人形に針を突き刺して行く「丑の刻参り」みたいである。

「ど、どうしたの郷ちゃんッ!!! 何なのっ?! この無数に地図につけられている黒い点はッ!! こ、怖いんですけどッ!!」

「怖くなくっちゃ、オカルトじゃねぇ……。おどろおどろしくなくっちゃ、占いじゃねぇ……。おっちゃんはすっこんでろッ!!」

「ううッ……」

 田代は事件以来、何も食べない郷原を心配して、弁当を届けに来たのだったが、それどころではなさそうだ。鬼気迫り、何者かに憑りつかれたように、郷原は、繰り返しホロスコープを描いては、それをペンで地図上に塗る、ということを繰り返していた。

「……そんなにあちこち指し示したら、探せないよ郷ちゃん……。もっとシンプルに、ズバッとここだって見つけてくれなくっちゃ……」

「うるせぇッ!! 俺に今話しかけるなッ!!」

 田代は郷原の怒鳴り声に、思わず肩をすくめた。確かに、事態が動くわけでもない今、郷原を好きにさせておくしかできない。郷原の占いを信じるしかない。

 田代はふぅっと微笑んで、郷原の様子を眼の端に置きながら、部屋を去っていった。彼の気が済んだ頃にもう一度、訪ねて来ればいいことだ。

「何かを決めれば、自動的に何かも決まる……。それが量子の世界……。ならば、100回、1000回、1万回……、いいや、10万回占いを繰り返せば、北山の居所がピンポイントで浮かび上がってくるはず……。問題は、時間との闘い……。くそッ……!!」

 郷原がそんなことをして、再び夜を迎えたころ、北山あかりは、片足を鎖で繋がれたまま、闇のしじまに埋もれていた。

 あれから何度か太陽が昇り、そして沈んだ。今は何度目の夜だろう……。たぶん、3度目か、4度目……。もう感覚がおかしくなって、よくわからない。

 捕えられてから日に2回、夜明け前と日没後に、コンビニのパンやおにぎり、飲み物と、使い捨て吸水パットが差し入れされてきた。

 差し入れに来るのはいつもトゲのある女だ。我慢しきれなかったあかりに、吸水パットを食べ物と引き換えに差し出させるが、それをつまみあげてせせら笑った。

「本当に、人間なんて……。いいえ、生き物というのは不便だわ」

「………?」

 あかりの排泄した尿パットと、弁当を見て女は言った。

「生きるなんて本当にしょうもない、くだらないことね……。ただ食べて、排泄してを繰り返すだけ……。人生に意味などあるのかしら? 自分が生きるためには、他の生き物を屠(ほふ)らなければならないわ。ベジタリアンだとかいって、さも善人ぶって、自分は殺さないなんて顔している連中がいるけれど、植物なら殺しても良くて動物はダメなんて、それこそ差別よ」

「は、はぁ……」

 差し入れに来た女は、珍しくあかりと会話をしたいようだ。あかりはじっと女の声を聴いていた。

「あなたも悔しくないの? こんな侮辱を受けているのよ? 今のあなたは犬だわ。あたしたちのワン公。トイレに行かせてください、食べ物をくださいと言って泣く……。尊厳も何もない。ただ、郷原が助けに来てくれると信じている、おめでたい脳内花畑のお姫様……。フフフ……。バカみたい」

(な……、何が言いたいのかしらこの人……?)

 あかりは、ホステス時代、あかりのことを何くれとなく世話してくれた、加奈子さんのことを思い出した。

(いい? あかりちゃん。あなたがまだ17歳だっていうことは、ママにも支配人にも黙っていてあげる。けれど、この銀座で働くのなら忘れないで。あたしたちは、人の話を聞くのが仕事なの。いい? どんなにバカにされてもからかわれても、胸を触られても、絶対に反抗してはダメよ。それがホステスの仕事……。いいわね?)

 人の話を聞く……。そうね……。あたしが社会で学んだことなんて、それくらいしかない……。聞くのよ……。なるべく同調して……。彼女の話を……。

「そ、そうだね……。うん……。あたしも、生きるなんてなぜしなくちゃいけないのって、よく考えるよ……」

 暗がりの向こうの女の息遣いが、明らかに変化した。静かな間だった。

「ふーん……。今どきの女なんてみんな、頭の中、自分がちやほやされることしか無いのではなくて? あなただってそうでしょう? どうせ親に甘やかされて、男にちやほやされて生きてきたのでしょうよ。淫乱の、バカ丸出しの顔をしてるもの」

 あたしはそうはならないわ、と、闇の向こうの女は、あかりに差し入れを投げつけながら言った。

「あたしはあんたみたいな、バカ丸出し低知能の、男だけしかないノ―タリン女になるのは嫌。逆よ。男を支配するのよ。女王としてね。フフ……」

「………………」

 あかりは投げつけられた差し入れを見た。ウーロン茶のペットボトルが1本と、おにぎりが2個だ。バカにされているはずなのに、怒りがちっとも湧いてこなかった。ひどい言葉を浴びせられることに、慣れてしまっているのかも知れない。

「あ、あなたはきっと、素晴らしい女性なのね……。賢くて、勉強もできて、何でも一人でよくわかる……。あたし、バカだから、そういう人って憧れる……。きっと家柄も何もかも、あたしとはレベルが違うのね……」

 あかりは、女を褒めた。わざとではない。どこか本気でそんな気がした。女をこじらせた女は、あかりのように卑屈になるか、あるいは、男以上に男と競い合いたがるかのどちらかだ。彼女は後者の気がした。

「そうよ。あたしの父はね、警察官僚なの。叔父は総務省の統括審議官……。あなたみたいに、子どもを産むだけのパープーにはわからないでしょう……。一族全員東大の、あたしの孤独なんてね……」

「……すごい……。あなたのご親族、みんな東大なのね? すごいわ!」

 あかりは心から言った。高校中退の自分からしたら、貴族のような家系である。

「……東大だからって何? 人は結局、誰だって醜いものよ。カネは欲しいし権力も欲しい。心からやりたい仕事なんてあいつらには無いのだわ。ただ、自分の安全と保身だけ……。くだらない。お役人なんて……。東大しかキャリアになれない、そんな格差などバカバカしい。あたしは、日本初の女性首相になる。今の官僚システムなどブッ壊してやるわ。父の顔に泥を塗り、あの男を失脚させてやる。いい気味……!! ふふ……!!」

 女が、あかりに言った。あかりは思わずコンビニの包みから顔を上げた。

「じゃあ、あたしをこうして鎖で繋いだり、郷原さんの会社に忍び込むのも、首相への夢のため……?」

「………………」

 女は、しばし黙った。間を置いてから「そうよ」と言った。

「だって、犯罪だよ? そんな犯罪者、首相になんて世間がさせるわけないじゃない。ねぇ、こんなことやめて……」

「ああ、これだからパープーは嫌いよッ!!」

 あかりが言い終わらない前に、女は怒鳴った。

「いいこと? あたしがこんなことに加担するのは、いずれ新自由革新党が政権与党になるからよっ!! 初代党首はこのあたし!! あたしなのっ!! 真の女性改革をするのよ!! あんたたちみたいな、産むしか能のないパープーは、ブタみたいにどんどん低能な男の種付けして産ませる仕事をさせ、有能な女はどんどん取り立てて出世させるのよ。男たちはその奴隷だわ!!」

「………………」

 あかりは、少し黙ったあと、小さな声でつぶやいた。

「あなた、自分のお母さんにも、同じこと言えるの……?」

「な……、なんですって?!」

「……あたしは、お母ちゃんが大好き……。もう死んじゃったけど……。産んでくれてありがとうって、今でも感謝してる……。あたしは、バカだっていい。お母ちゃんみたいな、家庭第一の、本当に強い女になりたい……。ねぇ……、そういう社会を創ってよ……。首相になってくれるなら……。お母さんと子どもが、離ればなれにならずに済む世の中を……。女が一人だって、子どもを育てられる世の中を……」

「くだらないわね。やっぱり、パープー女はダメ。議論にさえならないわ。まだ知能の低い男と会話する方がマシよ。じゃあね、お花畑さん」

「………………」

 女は捨て台詞を残して、闇の中へ消えていった。

 あたりは急にしんと静まり返った。あんな女でも、口を聞いてもらえると少しホッとして、あかりはぼんやりと、自分が産んだ娘、りえのことを考えた。それから、17歳のときに肉体関係を持ってしまった元官僚出身の代議士、飯田継男のことを考えた。

 17歳の未成年だったあかりが、銀座のお客だった飯田についほだされて、妊娠してしまってから、飯田は中絶費用のことも、慰謝料のことも、何も相談してくれなかった。ただやみくもに時間だけが空費され、あかりは心の準備もできないまま産み月を迎えてしまったのだ。

 あとで加奈子さんから聞いた話――。飯田は官僚時代から、ストレスがたまると立場をかさに着てホステスを暴行するのが趣味だったという。何人もの女が犠牲になったが、元官僚という立場のせいなのか、一族が代々政治家であるためなのか、社会的に罰せられることもないまま、野放しなのだと……。

(暴行――?)

 あかりはこの話を聞いたとき、自分の耳を疑った。

(ちがう――。暴行なんかじゃない……。あれは暴行なんかじゃ……)

 でも、わからない……。暴行、だったかも知れない……。自分が勝手に、暴行じゃないと信じたかっただけ……。

 男の人は、よくわからない。愛していると言いながら、まるで玩具でもいたずらするようにまさぐるし、嫌だと言うのに、それを喜んでいると勝手に誤解する。本当は怖いから、感じているフリをしているだけなのに、お前はスケベだとからかう。

(17でこれかよお前。よっぽどスケベな親から生まれてんだな。信じらんねぇ)

 飯田の行為中の言葉が、頭をよぎって思わず寒気がした。

 お父ちゃんと、お母ちゃんを、バカにしないで――。

 あたしのことを笑うのは構わない。でも、お父ちゃんとお母ちゃんを笑うのは許せない。二人がどれだけ苦労して、あたしを育ててくれたか、知りもしないで……。

(でも……。でも……)

 りえは、その飯田の子どもなのだ……。もう一度取り戻したところで、本当に愛せるだろうか……。

(強くなりたい――)

 あかりは唇をかみしめて、そう思った。

 もう生きていたって、いいことなんか何も無いのだから、このままここで殺されて、ラクになってしまってもいい。

 でも、もしも助かることができたら……。そのときは自分は、強くなるのだ……。鋼鉄のように図太い女に、生まれ変わるのだ……。そして祖母とりえと、二人の生活を見事に背負ってみせるのだ。

 ただ、その方法がわからない。郷原に教えて欲しいのはそこだった。

(恋とか、好きとか、そんなんじゃない……。ただ、似ているだけ……。郷原さんは……お父ちゃんに……)

 そんなことを考えて、自分のもの想いの中にあかりが深く沈潜していると、急にガタガタと階段を昇ってくる音がした。揺らめく光が、プレハブ小屋の窓にゆらゆらと、黒い人影を作り出した。

 

 

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