CHAPTER4、ホロスコープは無効~ヴォイド~(2)
引きこもりの永森が、エロ動画サイトを眺めながらゴロゴロしていると、不意にピンポーン、という呼び鈴が鳴った。慌ててエロ動画を消して起き上がり、インターホンを覗いてみると、見たことのあるオッサンが立っていたので、半纏姿で永森は玄関を開けた。
「……なんだよ田代のオッサンか。平安ファイナンスにドロボウが入ったってホント? あんなセキュリティじゃダメだってさぁ、俺、前から川嶋の若頭に言ってたんだけど……。何? どうしたのその箱??」
半纏姿の永森に構わず、ずかずかと室内に上がり込む田代だった。相変わらずフィギュアだの、アニメ雑誌だの、変な地下劇場アイドルだの、昭和のブルーフィルムだの、エロDVDだのが山と積まれている。
「永森さん……。あんた、元は真面目な銀行員だったのに、地に落ちたもんだねェ……。すっかり平安ファイナンスに飼いならされちゃって」
「……ははは。何言ってんの。田代さんだって同じでしょ? 平安ファイナンスでカネ借りたのが運のツキ……。借金は怖いよね。まさか自分が、ヤクザの仲間になるなんて思わなかったもん。まぁ、居心地はいいけどさ。川嶋の旦那がそれなりにカネくれるから」
永森はそう言うと、汚くて狭いキッチンで田代のために茶を淹れてくれた。
「んで、その段ボールは何だ?」
「ああ、これか。国家公安委員会の、極秘定例会文書さ。今からこれを精査する」
「うげ~……。それで俺のマンションに……?」
「しょうがないだろ。若頭の補佐、郷原悟の知人の女が攫われちまったんだ。警察は真面目に捜査する気はなさそうだし。俺たちでできることはしないと……」
半纏に手を突っ込んだまま、永森は眼を丸くした。
「何? 若頭補佐の女を誘拐?! そりゃあまたずいぶん大胆なことを……」
「だろ? 川嶋さんと郷ちゃんに恩返しするなら、今しかねぇ。永森さんも協力してくれ」
「そういうことなら……」と、永森はさっそく、田代が持ち込んだCDROMを開けてみたが、100本近く入っているので頭を搔いた。
「うげ~……。すごい量……。これを俺と田代さんだけで読むのかい?」
「いや、そう言うと思って実は助っ人を呼んである」
「助っ人??」
田代は携帯電話を取り出すと、どこかへ電話をした。電話の向こうの通話相手に、今、どこまで来ているのか確認を取った。
「もうそこまで来てるって」
しばらくすると、ピンポーン、と、永森の部屋のインターホンが鳴らされた。ドアを開けると、茶髪のホスト風な若い男と、角刈りの気真面目そうな若い男が、私服姿でドアの向こうに立っていた。見たことのある顔ぶれに永森は眼を丸くした。
「なんだ、平安ファイナンスの社員じゃん。えーっと……、確か……」
永森は、茶髪のチャラい男を指さして「こっちが村井」、角刈りの気真面目そうな男を指さして「こっちが浜崎?」と言った。二人はムキになって反論した。
「違うっス!! このイケメンが浜崎で、こっちのダサい堅物が村井っス!!」
「違います。このいかにも低知能ヤンキーが浜崎。インテリジェンス溢れる私が、村井です」
ぐぎぎっ……、と、二人はにらみ合った。
「まぁ、どっちでもいいけど、しょーがねぇ、上がってよ」
永森は仕方がなく二人をマンションへと入れた。
田代はさっそく、段ボール一杯のCDROMを床の上に並べ、3人の顔を見回した。
「いいかい浜崎君、村井君。そして永森さん……。このCDROMには、日本の治安に関するあらゆる極秘情報が入っている。その中でも特に、テロリストや、危険人物に関した情報だけをピックアップしてくれ。平安ファイナンスに賊が侵入し、あかりさんを気絶させた手口は、アフリカ系の、貧乏な国のテロリストがよく行うものだ。もしかしたら、それらの国からテロリストが不正入国している可能性が……。そしてそれが、今回の事件に繋がっている……。俺はそう推理する……。入管に関する記事、テロに関する記事、それから、1万人プロジェクト……、新自由革新党……、そういうワードを念入りに読んでくれ」
「わかった」
「わかったっス」
「わかりました」
と、3人はそれぞれ田代に頷いた。田代はそれを見届けると、3人を残して再び靴を履いた。
「ありゃ……。どうしたんだい田代のオッサン……。言い出しっぺが戦線離脱はないだろ?」
永森たちが田代の背中を見つめるので、田代は後ろ頭を掻いた。
「いや、それがさ。実は、平安ファイナンスの向かいにある喫茶店……、シュベールのマスターが……。警察には内緒の話があるっていうから……」
「シュベールの親父が??」
「警察には内緒の話??」
浜崎と村井は顔を見合わせた。あの喫茶店は、平安ファイナンスの斜め向かいにあって、社員たちはよく利用している。ランチが安いし、早朝からモーニングをやっているので、なにかと重宝している店だ。マスターは、川嶋とは昔なじみでもあった。
そこの親父が、警察には内緒の話――??
田代はああ、と頷いた。
「あそこのおやっさんが、郷ちゃんのことでちょっと耳に入れたいことがあると……。もしかしたらこの事件に関係があるかもって。俺、ちょっと今から行ってくる。話を聞いたらすぐ戻るよ」
「しょーがねぇなぁ……。じゃあなんか、ついでにメシでも買ってきてくださいよぉ~」と、浜崎が口をタコにした。田代は「わかったわかった」と頷いて、部屋をあとにした。
**
郷原はその頃、ホテルの室内を鑑識所員に調べられ、所在なさげにすみっこに座って一人、ウィスキーを飲んでいた。朝から事情聴取が続き、疲れていた。刑事二人が現時点でわかったことを伝えに来た。
「この部屋の指紋は4つ……。全員関係者のものでした。犯人は手袋を使用していたものと思われます。じゅうたんには、靴跡が……。一つだけ関係者の靴底と合わない、不審なサバイバルシューズ様の靴跡があり、それのサイズは27センチでした」
別の刑事が、平安ファイナンスのことを話した。
「平安ファイナンスの事務所のほうは、靴跡が乱雑でハッキリとはわからないのですが……。比較的新しい靴跡と見られるものが3つ……。一つは、サイズが推定27.5、もう一つが23センチと、24センチ……」
「23と、24センチ……。女の足だ……」
郷原がぼんやり言うと刑事は頷いた。
「そうですね。23センチのほうは、入口から2メートルほどの場所で途絶えています。恐らくこれが、北山さんのものでしょう」
「じゃあ犯人の一人は、女……?」
刑事に、どうして汚れたシャツなんか盗まれるのか、心当たりはありませんか? と聞かれて、郷原は口ごもってしまった。
「……すみません刑事さん……。その話は……。郷原にとってとても辛い話なものですから……。私がかわりに……」
そう言って川嶋が間に入ろうとしたが、郷原はよろよろとロックグラスを手から離すと、「いい」と短く言って、自分で刑事たちに説明した。刑事たちは郷原の告白に、顔を見合わせていた。彼の語る過去が、とても信じられない話だったので――。
半信半疑ながらも、郷原のことを手持ちのタブレットで、警視庁のデータベースにアクセスして調べると、郷原には確かに、14歳のときに犯した殺人事件があり、そのときの裁判では確かに、彼が失われた出雲王朝の血筋であるのか否かということが争点になった記録がある。
「ほ、本当に……?」
と、派遣されてきた刑事二人が、パソコン画面と郷原の顔を見比べながら顔を見合わせていると、別の刑事が、平安ファイナンスに残されていた、謎のA4コピー用紙に書かれていた数式のことを報告しに来た。
「これ、何の数式だかわかりました。量子力学における“波動関数”と呼ばれるものの一種のようです」
郷原が、憔悴した顔を上げた。
「量子力学における波動関数……? なにそれ……??」
「……???」
川嶋も、怪訝な顔をしていた。刑事がメモを読んだ。
「ええと……。波動関数とはつまり、量子状態に関する方程式。端的に言うと「物体の『状態』そのものの波動」であり、この事は物体の状態(例えば「犬がおなかをすかせています…」ということでさえも)が波で表されることを示しており、また波は重ね合わせの原理(波1と波2が同時に存在できる)を満たすため、原理的には物体が同時に複数の相異なる状態を取りえる(シュレーディンガーの猫)ことを示す。 ウィキペディアより抜粋……、ということです。はい」
「ウィキペディアより抜粋って言われてもなぁ……」
川嶋がしきりと首をかしげていた。禅問答みたいなことを言われても困る。郷原は怪訝な表情を浮かべて、つぶやいた。
「シュレーディンガーの猫……? それなら、聞いたことがある……。確か、一種の思考実験……。どのタイミングで毒が放出されるかわからない装置がついた箱に、生きた猫を入れてフタを閉めると、外側からは猫が生きているのか、死んでいるのかわからなくなる。そこに“生死の重ね合わせ”があるというパラドックスの話ではなかったか……?」
郷原が言うと、川嶋はますます首を左右に振った。
「俺には、さっぱりわからん」
「占いがなぜ当たるのか? 心理学者ユングと、物理学者パウリの問い……。そこでよく引き合いに出されるのが、素粒子物理学と量子論……。敵はもしかして……」
占い師か、心理学者……? と、郷原は、自分でつぶやいてから、その言葉が彼の深層の直観領域……、無意識領域を、確実にとらえた。自分でピンときて郷原は、憔悴した顔に少し生気が戻った。
「……郷原さん、何か、お心当たりでも?」
刑事が穿った顔をして、郷原を覗き込んだ。
「いや、心当たりはないが……。こういうことをやるヤツの、好みはなんとなくわかる……。かなり占いに詳しい人間……」
刑事たちはまたしても、顔を見合わせてから付け加えた。
「この用紙とインクは、ごく普通の日本製でした。家電量販店でどこででも買えるインク、プリンターを使ってあるので、こちらを調べるのは困難ですが、紙にはなぜだが、ごく微量の放射性元素が……」
「放射性元素?」
郷原が刑事のほうに視線を向けると、刑事は「はい」と頷いてから「セシウム137という、核分裂反応生成物です」と言った。これには川嶋がすぐに反応した。
「セシウム137……。確か、常陽電力F県第一原発事故の問題で、しばしば話題になる物質だ……。半減期が30年とか……」
「……じゃあ、この用紙は、F県から平安ファイナンスまでやってきた……?」
郷原が言うと、刑事は「わかりません」と答えた。
「F県とは限らないです。風向き次第で、半径300キロ圏内くらいまでは、飛散することがありますし……。北関東で屋外に置いておいても、風向きによってはこのくらい付着することがある、という量なんです」
「しかし刑事さん、少しでも可能性のあることは、調べてくれるのでしょう?」川嶋が言うと、刑事は後ろ頭を搔いた。
「あ、それは……。捜査本部の方針次第と言いましょうか……。一介の刑事の私には、なんともお答えのしようが……」
「なんだよ頼りないなぁ。俺たちが反社会的勢力だからって差別してるのか?」
川嶋が思わず、タバコのパックを揺すって1本取り出しながら言うと、刑事たちは恐縮した感じでお茶を濁し、そのまま引き上げていった。
**
けっきょくこの日は、鑑識と聞き込み、事情聴取で1日潰れた。刑事たちは鑑識結果が判明次第、すぐに連絡すると約束して部屋を出ていった。結果が出るまで丸1日はかかるとのことだ。川嶋は一通り作業を見届けると、寺本厳や警察とやりとりをするため、郷原のホテルを出て行った。一人になった郷原は、ウィスキーの瓶をまた1本開けて、氷を入れたロックグラスで煽った。
そして考え込んでから、今回のこの件で初めて、占いを立ててみる気になった。深呼吸して、自分自身の胸を静かに落ち着ける――。深く深く、心をおだやかにさせる……。酒の香りが、郷原にとっては集中のためのアロマだった。爪楊枝を犬歯で何度も噛み、眼を閉じて、自分の中に集中した。ポーズは、思うままで構わない。郷原にとって一番ラクなのは、ソファにゆったりと座ってリラックスすることだった。緊張を極力取り除く……。天と地と、自分のタイミングが整う瞬間をじっと待つ……。
どれくらい時間が経過したのだろう……。しばし瞑想したのち、おもむろに郷原は、今、このときの時刻をメモすると、このタイミングで星々の位置を描き出してみた。
すると――。
「……おかしい……。集中して精神を落ち着けてから、星の軌道を描いたはずなのに……。なぜボイドタイムになる……?」
郷原は、月の現在位置が非常に気になった。占星術で卜占……、つまり、誰かの生年月日ではなく、気になったタイミングで星を占う技法のことを「ホラリー」と呼ぶが、そのホラリーには昔からあるルールが存在する。それは、地球の衛星である「月」を何よりも重視する、ということだ。月の位置、月の相、月が宿る星座、その角度……。そして地平線上との位置関係……。これらすべてが占いの答えである。
地球の衛星である月は、平均29.53日で朔望を繰り返す。地球から観測できる星で、こんなに動きの速い星はない。およそ12分でホロスコープ上……、すなわち、360度の円の座標を1度動いてしまうのだ。
そして、刻々と月が移動してゆく最中、ときどき、月が、他のどの太陽系天体とも見かけ上の4分割角、3分割角を作らないときがある。このタイミングを占星術では「ボイド(無効・空白)」と呼び、この相が出たときの占いは文字通り無効であるとされていた。
あかりの行方不明を掴むための、大切な「最初の回答」が、いきなりの「無効」と来たから、郷原は激しく爪楊枝を噛むと、髪を掻き毟って書斎に突っ伏した。
「くそっ……。何が気に入らないんだ、星どもめっ……。よりによってボイドとは……」
占断は絶対だ。何度も繰り返すことは厳に慎まなければならない。雪村幸造からもそう教え込まれている。つまり、今出した天体図は、不動であるということ……。読み方を変え、見方を変え、微に入り、細に入り考えることで、ボイドのホロスコープでも、大きなヒントになることはあるはず……。
郷原は月の位置をじっと見つめ、犬歯で激しく爪楊枝を噛みしめながら、脳細胞をフル稼働させた。
月――。巨蟹宮にいる……。巨蟹宮の意味……。「過去の思い出」「幼少時代」……。
そしてその月は、「サロス周期」で知られる蝕を生み出すポイント……、ドラゴンの尾を通過した直後であった。
郷原は、そういえば、と思い出していた。そういえば、巨蟹宮の反対……、磨羯宮で今年の夏、日蝕が起きていたはず――。
(蝕は古来より、天変地異……、地獄の窯の蓋が開くことを暗示する……。嫌な星回りだ……。そのサロス周期を表すドラゴンの尾を踏んだ月が、過去を意味する巨蟹宮に……。それはつまり……)
俺の過去……、子ども時代を知る人間で、なおかつ、目的のためには手段を選ばぬ強力な実行者ということ――?
神経が、不穏な連想に緊張を帯びた。考えたくない――。まさか――。
(強力な実行者……。そして、俺の過去を知る人物……)
郷原は胸を押さえてじっと青ざめた。疑いたくない……。あの男が関係しているなんてことは……。真面目に人生をやり直したい、助けてくれと、ついこの間、目の前で泣かれたのだ……。
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