前編完・卑怯なキス
あかりが、八溝山ふもとの街の病院で手術を受け、病室に寝かされたのは、12月31日の午前4時頃だった。
医師の話では、あと2センチも傷が上だったら、腎臓が破裂して助からなかっただろう、という話であったが、幸いなことに腎臓は損傷していなかった。郷原は、昨日見た不思議な夢を思い出していた。きっと約束通り、おせっかいな連中が、銃弾をなんとかぎりぎり、反らしてくれたのだ。
しかし安心はできない。どちらかというと失血多量と、そこから来る低体温症のほうが深刻で、このまま体温が回復しなければ最悪の事態もあり得る、覚悟してくださいと医師から告げられた郷原だった。
当然、あかりはこのまま入院である。この病院は、あかりの傷が明らかに銃創ではあっても、余計な詮索をしないでくれたのが有難かった。
看護師が、郷原の左手首の出血に気付いた。岸本も、看護師に言われて初めて気が付いた。
「……お前、すごい血……!! お前まで怪我してるじゃん!!」
「何かで切った傷みたい……。縫わなきゃダメだわ。先生に診てもらいましょう」
「いや、これは……」
「大丈夫。奥さんのほうは終わったし、そのまま診てもらいましょう? ね?」
「……別に、奥さんじゃねぇし……」
郷原は、苦虫をかみつぶしたような顔をして、そのまま看護師に処置室へと連れて行かれた。
「ところであなた、あの人のご主人?」
医者は郷原の切り傷を縫合しながら、郷原を上目づかいに見た。
「いいえ……」
「あの人のご家族は?」
「………………」
「健康保険証は?」
「さぁ………」
「……じゃあ、支払いはどうするの」
「それは私が……」
「あんた払う?」
「はい」
医者は、あっそう、とだけ言って、縫合した糸をくくると、包帯を巻き、郷原に伝票を渡した。これを持って夜間受付に行けとのことだった。
受付でまたしても、支払いのこと、身元引受人のことを聞かれたあと、郷原が保証人として入院同意書にサインすることになった。それから、あかりの眠る病室へ――。
そこには、岸本正巳がいた。岸本が、済まなさそうに郷原に言った。
「申し訳ない……。この子を連れて、アジトから逃げる途中、江川夏実という女首領に撃たれちまった……。俺がもっとちゃんと、この子を守っていたら……」
「……いい。見えたから……」
「見えた?」
岸本は、きょとんとして郷原を見た。郷原は岸本には関心無さそうに、あかりだけを見つめて、猫にするように手の甲で頬を撫でていた。岸本はどう話していいか迷ったが、ひとまず椅子から尻を落とすと、床に手をつき郷原に謝ることにした。もう本音で頼むことしかできない――。
「いろいろ、怒りや憤りは、今回のことにあると思う……。もうわかっているとは思うけど、お前の部屋に忍び込み、DNA鑑定のサンプルを盗み出したのは、俺と、あのホテルの従業員だった石塚だ……。それに関してはまず謝る。済まなかった」
「………………」
「お、俺は、ソマリアへ逃げたあと……。研究財団ウィオスに拾われた……。うっかりお前の噂話をしてしまい、それでこんなことに……」
「………………」
郷原は、ずっと無言のままだった。あかりの寝顔だけを見つめたまま、岸本が降りてしまったパイプ椅子を掴むと、手元に引き寄せて、あかりの枕元に腰かけた。
岸本は構わず続けた。もう時間がない……。もたもたしていては、出航時間に間に合わなくなるかも知れないのだ。
「詳しいことはあとで話すが、俺は、どうしてもクリシュナと、それを利用して自分の利権にしようとする日本の連中に、一泡吹かせてやりたい。ウィオスは、ずっとソマリアの人たちをだましてきた……。ソマリアのための戦いは、本当は、ウィオスの利権を守るため……。殺されたたくさんの仲間、飢えと貧困……、それを屁とも思わない連中……」
そこまで言うと岸本は、ガバリと床に伏せ、額を郷原の足元にこすりつけた。
「た、頼む!! 俺も一緒にクリシュナの元へと連れていってくれ!! お前を連れていきさえすれば、俺もあの船に……、ブリリアントオーシャンⅡに乗り込める……!!」
「ブリリアントオーシャンⅡ……?」
ずっとあかりだけを見ていた郷原が、ようやく顔を少しだけ岸本のほうに向けた。岸本は手ごたえで、思わず激しく頷いた。
「そ、そうだっ!! ブリリアントオーシャンⅡ……。アメリカNSC最高顧問や、旧国務長官、通商代表など、アメリカを代表する実力者たちが株を大量に所有している船会社の豪華客船……。親会社はもちろんウィオスだ。クリシュナは、アメリカ西海岸を代表する政治勢力の手先さ。そいつらは、アメリカの主導権を握る東海岸と、裏で激烈な凌ぎあいをしている……。ソマリアは、そのエネルギー利権の争いに巻き込まれた。このままでは日本も……。俺みたいな単なるゲリラに、どうこうできる相手じゃないことはもちろん、わかっている……。しかし、一矢報いてやりたい……。たとえアリのひと噛みでも……」
岸本は、いっそう深々と頭を下げた。郷原はじっとあかりだけを見つめていた。
「……お前の話を、信用しろというほうが無理だ。俺にお前の願いを聞いてやる義理は無い。しかし……」
やがて、はぁっと大きなため息をついた郷原である。
「クリシュナには会わねばならん……。自分自身の生まれに、ケリをつけるためにも……」
岸本は、顔を上げて郷原を見た。あかりの体温を上げるため、彼女のベッドを取り囲んでいるヒーターの赤い光に炙られた横顔からは、表情がまったく読めなかった。
「クリシュナに会うにはどうしたらいい」
郷原がポツリと言うから、岸本は手を突いたまま赤潮して、声を張った。
「お、俺が案内する!!」
なんだと……? と、郷原は、睨むように岸本を見た。岸本はひるまなかった。もう取り繕うことなどしなくていいのだ。
「お、俺は、あの船に乗る方法を知っている!! 俺の言う通りにすればいい……。クリシュナは、ブリリアントオーシャンⅡに各国のゼネコンや、首長、投資家だのを集め、お前を待ち構えているだろう……。まもなく神戸港に入る……。そして、今日の正午、神戸からの客を乗せ出航……。そこから長崎まで、元旦のニューイヤークルーズだとさ……。しかし……。その船には、招待状がないと入れない……」
「招待状があればいいんだな?」
郷原は、岸本のほうをやっと振り返った。岸本は、郷原の眼を見て「そうだ」と頷いた。
「……招待状は、もちろんお前さ……。郷原……。だから俺は……。頼む、俺と一緒にブリリアントオーシャンⅡに乗ってくれっ!!」
「………………」
郷原は、左腕にいつも嵌めているロレックスを見た。現在朝の4時30分を回ったところ――。正午に神戸を出航――。あと7時間程度しかない……。I県から神戸まで、ギリギリの時間だ。
「………………」
しばらく考えて、岸本に告げた。
「……ちょっとだけ、二人きりにさせて……」
岸本はわかった、と頷くと、あかりの個室を出ていった。
郷原は深いため息とともに、じっとあかりの寝顔を眺めた。
(俺たちはまだ、何も知らない……。互いのことなど何も……。それなのに、状況だけがどんどん、深入りせざるを得ない関係を作って行く……。こんなことって……)
郷原は、顔を両手で覆った。深いため息を吐いて、指の隙間からあかりの寝顔を見た。
西の地平に沈みかかった大きな十六夜の月から、窓越しにまっすぐ差し込む青白い光を受け、眠るあかりを見ていると、郷原は、預けられた養護施設の真夜中の礼拝堂で一人、母に面影を重ねて眺めていたマリア像を思い出した。
(彼女は、私です郷原……。あなたが憎んでやまない私なのです。それでも、助け出しますか)
昨日の夢が、まだ心に響いていた。すべての憎しみを、イエスに向けてきたのに……。神を呪い、宇宙を呪い、生きることの全てを呪って生きてきたのに――。
(その呪いが、これか?? この女が、遣わされてきただと――??)
思わず、問いかけるように手が伸びた。
恐る恐る、冷たい頬に触れ、流れるウェーブの黒髪に沿って、肩のほうまで撫でおろした。窓越しの月明かりが、失血のせいで石膏のように白くなってしまったあかりの肌を、さらに青白く染めていた。この世のものとは思えぬほどの透明感だった。
なんとなく、首筋に手を這わせていって、シーツ越しにくっきりと膨らんだ、二つの胸が気になった。薄い、合せただけの手術着の胸元に、無意識のまま手を入れていた。あかりのあの、無邪気な様子からは、想像できない乳房の大きさだったから、少し戸惑った。
そう……。この人は母親……。この乳房は、その子のためのもの……。あかりが産んで、捨てた娘は、この乳房を恋しがって、どれほど泣いたのだろう……。
「ん……、ん……」
あかりは刺激でぼんやり眼を覚ました。郷原は、あかりが目覚めても構わずに、無心で乳房を撫でていた。あかりは「郷原さん……」と、かすかにつぶやいて、まどろんだまま、じっと受け入れていた。
「……嫌じゃないのか……?」
撫でまわす自分の手を、拒もうとしないあかりに尋ねたが、あかりは心地よさそうに微笑むと、眼を閉じた。乳房がひんやりとして、その奥から熱がこみ上げてくる――。ふにゃふにゃとした、不思議な手触り……。男の体に、こんなものはついていない。とても不思議で、撫で続けた。郷原が触れるたび、あかりの肌に泡が立った。たぶん、冷えた体を温かい手で撫でられると、気持ちいいのだろう。
「………………」
この顔……。見覚えのある顔……。子どもの頃の自分が、夜、母の布団に忍び込んで、夢中で母の乳房に顔を埋めたとき、母は、こんな顔をしてまどろんでいた気がした。
(似ている……。北山は、どうしようもなく、あの女に似ている……)
そして昨日の夢――……。
(彼女は、私です郷原……。あなたが憎んでやまない私なのです)
「そんなわけない……。ただの女だ。ただの、薄汚い女……。だから、こうしたらきっと……」
郷原は、衝動のまま、パイプ椅子から身を乗り出すと、あかりの唇をそっと舐めた。ただの女なら、こうしてやれば、薄汚い快感のため息を吐き出して、彼を貪ろうとするはずだ。
朦朧として動けないあかりは、なすがままにされるだけだった。あかりが無抵抗なのをいいことに、郷原は彼女の唇を押し広げると、その中に舌を入れていた。あかりがなんとなく、それに答えてくれた気がして、夢中でキスをした。
岸本が途中、缶コーヒーを買って戻ってきたが、ドア越しに二人の影が重なっているのが見えたので、遠慮して元来た廊下を戻って行った。
どれくらい時間が経ったのだろう――。
郷原がそっと顔を離すと、あかりは頬を赤潮させて、郷原の瞳をのぞき込み、涙ぐんでいた。
泣く――……?? どうして――??
胸にガラスの破片が刺さったような気がして、罪悪感が一気に郷原を支配した。
「ご、ごめん……。こんなの、卑怯だね……。俺……。最低だ……」
郷原が言い終わると同時に、あかりは郷原に微笑んだあと、気を失うように眠ってしまった。麻酔がまだ切れていないようだ。
郷原はあかりの服を直してやると、冷たい手を取った。それから、つややかな黒髪をゆっくり掻き上げて、彼女の耳元で囁いた。
「俺、行かなくちゃ……。なるべく早くケリをつけて戻る。そうしたら……」
ちゃんと別れよう……。俺たちはもう、一緒に居ちゃあいけない……。と言った。
そう……。一緒にいてはいけない……。一緒にいたら、自分は、あかりをめちゃめちゃに傷つけて、殺してしまうかもしれない……。愛し方がわからない。
病室を後にして、久子の元へと電話をかけた。こんな夜明け前の時間で、迷惑なのはわかってはいるが、彼女以外に北山あかりを頼める人物が思いつかなかった。
かなり長い間コール音を鳴らして、やっと出た久子に頼みごとを話すと、久子はいつもの通りなぜ? どうして? と、激しく疑問をぶつけてきたが、時間がない。
「頼むよ久子ママ。親もきょうだいもいない、身寄りのない女の子なんだ……。それに、女に必要なものとか、着替えなんかは男にはわからないから……。うん……。ごめんね……。東京に無事に戻れたら、きっと店に顔を出すから」
「ちょっと、郷ちゃん?!」と、電話の向こうで叫ぶ声が聞こえたが、郷原はそのまま電話を切った。
振り返ると、岸本が待っていた。
「もう、気は済んだのか……?」
「ああ。行こう。神戸へ」
郷原は、肩で風を切り病院を出た。大きな月が西の地平に沈みかけ、東の空がうっすらと光明を帯びていた。
(黒龍の目覚め編・前編完)
後編へ続く。
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