CHAPTER6、黒い龍(1)

 もやのかかった砂浜――。霧にかすむ波間には、二つの大きな黒い岩……。しめ縄が巡らされている……。

 郷原は、その砂浜にポツンと一人、立っていた。

 誰もいない寂しい砂浜のはずなのに、強い視線を感じる……。ふと顔を上げると、いつの間にか目の前の、しめ縄がめぐらされた二つの岩の間に、天を突くほどの巨大な黒い龍がいた。あり得ないほど大きく、長く、太い龍……。よく見ると、その黒いうろこの一つ一つは、宇宙を透かしている……。とても高貴な佇まいであった。

 しかし、郷原には呪いの龍だった。対峙するだけでいまいましい。子どもの頃からときどき、郷原の夢に現れて、郷原を苦しめる恐ろしく邪悪な存在だった。

「……またお前か……。なぜ、一族ではない俺の夢枕に現れる……? お前は、出雲の王権の龍のはず。ふさわしい人物の元へゆけ。俺ではなく……」

 郷原が思わず掴んだ自分の胸には、ロザリオの感触があった。キリストの神でも、なんでもいい。黒龍を追い払って欲しい……。これは、自分を連れ去る恐ろしい、恐ろしい龍……。助けてくれるなら、イエスの軍門に下ってもいい……。

(それは本当ですか? 郷原――)

 ロザリオから声が聞こえてきた。郷原はケッ、とほくそ笑んだ。

「俺を回心させたいんだろ?? イエス様よ――。占い師などという、救われない被差別民に堕ちた俺を、地獄から救いたいのだろ?? 救い出させてやるよ。だから追っ払ってくれっ!! あの龍は、俺を連れ去りにきた怖い龍だっ!! 行きたくないっ!! 俺を龍に差し出さないで!!」

 かあさん――!! と、いつのまにか胸のロザリオは、女の姿になっていた。郷原は小さい子どものように、女の足元に縋りついた。しかし、郷原が母と思った女は――。郷原の腕をつかむと、裂けた口でニタリと笑い、蛇のように舌をチロチロ出した。

「う、うわぁ!!!!」

 すぐに女を突き飛ばし、波打ち際へ逃げる。しかし、荒波の向こうには郷原を連れ去る黒い龍が――。砂浜から女、波の向こうから黒い龍――。郷原は、がたがたと怯えて、パニックになって、90度直角方向――、波と砂浜のはざまを無我夢中で駆けた。蛇女と黒龍が、するすると追いかけてきた。

「助けてっ!!! 助けて先生ッ!! 麻生先生っ!! 俺が悪かったです!! もうイエス様を嫌ったりしません!! イエス様を蹴ったり、らくがきしたりしません!! 聖書も、もう一度全部読みますっ!! だから――ー!! 俺をさらわないでっ!!! 俺は、俺はここにいたいっ!!! 川嶋さんの傍に――!!」

 ふと、光を感じて顔を上げると、郷原の眼の前に、光り輝く美しい男性がたたずんでいた。

(おかしな人だこと――。そんなに主・イエスを求めながら、あなたには主・イエスが何も見えていない――)

「え……??」

 優しい声に立ち止まり、つい、後ろを振り返る――。恐ろしい蛇女と、恐ろしい黒龍は、いつのまにか2柱の光の天使に姿を変えていた。

「………………」

 前方で郷原の行く手を塞いだ天使と、追いかけてきた2体の天使たちは、キラキラと輝きながら、一つの渦に溶け合って、光の涙を流していた。やがて3柱の天使たちはくるくるとらせんを描いて舞い上がると、再び黒い龍に姿を変えた。龍は涙を流していた。

「……なぜ、泣いている……?? お、俺のためにか……??」

「………………」

「俺は、お前の一族にとって、憎い仇であるはず……。お前の一族を汚れた血で汚し、王権である金印を、盗み出した女の息子だぞ――?? 黒龍よ……。お前は、俺をかみ殺したっていいはずだ。なのになぜ、涙を……??」

 黒い龍の顔は、雲の向こうに突き出ているから、表情は見えない。けれども、こぼされた涙は紫や水色の美しいクリスタルになり、幻想的に郷原の体に降り注いでいた。

(あなたに、辛い知らせを与えなければなりません――)

「辛い知らせ……??」

 郷原は、怯えて、自分の肩を両手で抱いた。龍は宝石の涙を降らせながら、郷原を落ち着かせるように語り掛けた。

(その知らせにより、あなたはまた、主を呪うかも知れません……。けれども、忘れないで……。主・イエスは、常にあなたと共に悲しんでおられることを――)

 出雲の王権の象徴である黒い龍は、我こそイエスの眷属であるかのように言うから、郷原は反発した。

「う……、うそだっ……。イエス様は、何もしてくれないいつもっ……。祈って、願っても、頭ひとつ撫でてくださったことはない……。俺と姉さんに、あんなひどいことをした母さんを罰してくれない、姉さんを助けてくれない、麻生先生を、雪村の爺さんを、俺から奪っていったっ……!! か、川嶋さんだけは……。兄さんだけは、取り上げないで……。誰にも愛してもらえないなんてそんなの……、そんなの、悲しすぎるよっ……」

 郷原は、泣いていた。彼が愛した者を皆、主・イエスは奪い去った。信用できるものか――!! サタンめっ!!!

(ちがう。私は、愛するために来た。あなたをこの胸に抱きとるために――)

 頭の上から響いた声は、キラキラと光になってらせんのように舞い降りると、一人の女の姿になった。大きく膨らんだ乳房と、細い腰、つややかな栗色の髪――。そして荒々しさのかけらもない、女性特有のいつくしむような瞳――。

「き……、北山――……」

(そう――。彼女は、私です郷原……。あなたが憎んでやまない私なのです。それでも、助け出しますか)

「うっ…………」

 郷原は、思わずへたりこむと、唇を強く噛んだ。

「違う。北山は北山だ。主が遣わした女などではない――。ただの、罪深い女だっ!!」

(では、だとするならば、彼女がまた消えてしまえばお前は、どうなるのです……??)

「だから、愛さないんだっ!! もう誰も愛したくなんかないっ!! だから、助け出せたらもう、それでいい!! 二度と会わない、約束する!! 絶対二度と会うものかっ!! もともとそのつもりだったんだっ!!!」

(もう会わない――。ならば、彼女が死んでも生きても、あなたには関係のないことですね)

 黒い龍は、あかりの体を珠で包むと、そのまま映像に変えた。郷原の眼に、あかりのヴィジョンが見えた。あかりは――。誰かに手を引かれて、必死にトラックに飛び移ろうとしているが、その瞬間、頭をピストルで撃ち抜かれ――。

「やッ!! やめろッ!! やめてくれッ!! うわぁぁぁッ!!」

 郷原は、パニックになってビジョンに手をかざし、あかりを救おうとしたが無駄だった。あかりは頭を撃ち抜かれ、そのままトラックに置き去りにされていた。

「う、うそだろ?! うそだろ北山っ!!」

(……可哀そうですが、これが彼女の運命……。なのにあなたは、助けに行くと?? 会えば会うほど、惹かれてしまう彼女を、再び連れ去る主・イエスをまた見るために、それでも行くのですか?)

「……そ、そんな……」

 郷原は、がっくりと腰から落ちて、砂浜に両手を突いた。もう、誰かを奪われることは、耐えられない――。

(一つ取引をしようではありませんか郷原)

 威厳に満ちた天使の声が、頭の上から降ってきた。郷原は顔を上げた。

「と、取引――……??」

 ふと、顔を上げるとそこには再び、とても美しい若い男性が、天使の翼を広げて漂っていた。天使は優しく郷原に微笑んだ。

(そう……。“生きる” と、誓ってください。彼女の命を救うことと引き換えに、生きる、と……)

「生きる……?? なぜ……??」

(あなたのいのちは、主・イエスのものだからです。あなたの体もこころも、すべて主のもの――。だから、あなたの好きにはさせない)

「な……、何を言っているっ……。お、俺の命は、俺のものだっ!!」

(では、残念ですね郷原。彼女の命はこれまで――)

 天使はそういうと、先ほどのヴィジョンを再び郷原に見せた。離れたところから、何者かが撃った銃弾が、本当に奇跡的に、見事にピッタリとあかりの後頭部を撃ち抜いていた。

「う、うわぁ!!! やっ、やめろっ!! やめてくれっ!! この子は、俺とはなんの関係もないはずだろっ??!!」

(ならば誓いますか。生きると。命を主に捧げると――)

「……いつか、近いうちに死なせてくれるならいいよっ……!! 十年も、二十年もはいやだ――。そんなには……。もう、疲れたんだ……。俺を一刻も早く、死なせてくれるなら――」

(……あなたには、いつか自分の死ぬべき日が、わかるときがくる。そのときまで生きなさい郷原。そして、愛しなさい……。たとえそのとき、愛のため、煉獄の苦しみが待っていようとも、愛して、生きる――。それだけを誓って――)

 そうであるならば、助けましょう彼女を、と、天使が言った。郷原は、弱々しく首を左右に振った。

「そ、そりゃあ……。そんな約束で北山のいのちを救ってもらえるなら……。約束したっていい……。でも……。自信がない……。生き続けられる自信が……。死ぬことだけを願って生きてきた……。だから……」

 どうしたら約束を守れるんだ、と、郷原は、頼りない目で天使を見たが、天使は離れていった。

(もうあなたは、誓いました。この取引は取り消すことはできません。では)

「あ――」

 天使はそういうと、再び輝くらせんの渦になり、黒い龍に姿を変えた。

(信じなさい郷原。信じれば、撃ち破れる……。決定された死の運命でさえも……。それがこの世界の真実……)

「信じれば……?」

 郷原が、口の中で龍の言ったことを反復し終わると同時に、天使たちが姿を変えた黒い龍は、一気に波間から天へ飛翔した。

「うわぁッ!!」

 郷原は、すさまじいエネルギーに吹っ飛ばされて、思わず叫ぶと、書斎の椅子から転げ落ちて目が覚めた。しばし呆然とした。

 ものすごい寝汗……。それにしてもリアルな夢……。まだはっきりと感覚がある……。思わず自分の両肩を、自分で抱いていた。それから、光として呼び出されたあかりが、見せられたヴィジョンの中で撃ち殺されるイメージも……。チラリと見えた、背中に背負ったあかりの、黒いリュックサックが、やけに鮮明だった。

「……殺される……? 北山が犯行グループに……? しかし……」

 天使は、郷原が生きると誓うなら、あかりの命だけは助けると……。

 頭がクラクラして、やけに喉が渇いていた。郷原は立ち上がると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して飲もうとした。

 とても信じられない夢……。しかし次の瞬間、今のことが、夢でないのを知った。なぜなら、冷蔵庫を開けようとしたとたん、自分の手のひらにべったりと、海の砂がついていたからだ。

「う、うわぁッ!!」

 思わずよろけて、海の砂を払いのけようとした。その拍子で書斎に背中が当たり、マウスが落ちてしまった。

「あ~……。くそっ。おかしな夢なんか見るから、マウスが落っこちた。ったく……」

 ふと、パソコン画面を見るとなぜだか、麻雀サイトになっていた。確か、居眠りする寸前まで見ていたのは、物理学に関するちんぷんかんぷんなサイトだったはず……。

「なんだよドラゴン和了ガイドって……。ダブル役満の作り方……?」

 なんとなく見ていると、なぜだか、麻雀サイトの中に“波束の収縮”とか“量子状態”などの量子力学用語が――。

「んん~……??」

 このサイトは、雀鬼と呼ばれた文豪を敬愛する者が、麻雀の奥義について語るサイトのようだった。物理学や数学はちんぷんかんぷんな郷原でも、麻雀ならわかる。思わずサイトを熟読していた。

「……つまり量子状態とは、“牌が伏せられた状態”のこと――。その牌に彫られたのがワンズかピンズかソーズか、はたまた字牌なのか、まったくわからない状態のとき、その牌の表面はまさに、量子状態であると言える……。 んん……? その牌がツモられ、プレイヤーに見られるごくわずかの、0.00何秒かの間で、量子の間で情報交換がなされ、表面の種類が確定するのである――」

 郷原は、思わず身を乗り出していた。その続きを食い入るように読んだ。

「……つまり、プレイヤーがある種の“ツキ”にあると、本来の定めにある牌の表面は、プレイヤーの思念で変化する……。これが現代量子力学が至った結論……。いわゆる“コペンハーゲン解釈”である……。勝ちたければ100回、1000回、1万回とプレイし、強く強く、勝ちイメージを手繰り寄せる……。強く願えば、本来決まったはずの配牌でさえも、変えることが可能なのである……」

 郷原は、思わずうっすらと口角を上げ、冷や汗とともに、笑いがこみあげてきた。

「つまり“ツキ”の正体とは――。いうなれば“たくさん”“何度でも”“あきらめずに”“繰り返す”ことに他ならない。繰り返し反復することで、次第にプレイヤーはある程度局面を自己の思念でコントロールできるようになる――。これが、現代量子論から見た“ツキ”の正体――」

 そういえば、思い出す天使の最後のことば――。

(信じなさい郷原。信じれば、撃ち破れる……。決定された死の運命でさえも……)
 
 ホームページに書かれた解説文を、口に出して読みながら、郷原の口角はますます興奮でつりあがった。

「……わかる……。なんとなくわかる……。おかしな理系バカの説明より、麻雀マニアの説明のほうが何倍もよーくわかる……!! なるほど……。波動関数というのは、そういうこと……。もやもやした可能性の雲が、人間が見た瞬間に確定すること……。そして、それを手繰り寄せるためには、限りない反復――、諦めない精神力の強さ――」

 これこそまさに、「占い」そのものではないか……!!!

 これこそ「占い」で何度も体験してきた、星によって確定された運がくつがえる瞬間の神秘ではないか……!!!

 郷原は再び夢中で、天体暦を繰ると、もう一度ホロスコープを描いた。クリシュナの挑戦状が物語る「波動関数」「量子状態」とはもしかして――……!!

「つまり、占いで当てるのではない……。占いでむしろ、潰すのだ、可能性を……。それが波束の収縮……。シュレーディンガーの猫……。一方が決まれば自動的にもう一方が決まる……!!」

 郷原はひとりごちて、夢中でホロスコープを描き、星の位置を一心不乱に地図上に、ペンで記していった。

「北山は、原発からそう離れていない場所に居る……。しかし、ピンポイントで見つけ出すには、目に見えない素粒子に占わせるしかないのだ……。素粒子に占わせるためには、100回、1000回、10000回、むしろ占いを繰り返す……。自分の表層意識が沈み、無意識が立ち現われてくるまで……!!」

 

 

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