CHAPTER7、逃走(1)

「こうなりゃ、郷原にすぐ、こいつを引き渡すしかねぇ……」

 運転手の石塚は、ハンドルを必死に押さえて言った。

「しかし、果たして、女と引き換えだったとして、郷原が来るでしょうか……? 長年、否定し続けてきたのでしょ? 本人は……。自分の身分を……」

「郷原が真にヤクザなら、自分を慕って手紙を入れに来るような女を、見捨てるはずはない。ヤクザが、弱い者を見捨てて逃げたりすれば、それはヤクザの面汚しだ。メンツのために郷原は来るさ……。絶対にな……」

 言いながら岸本は、軽トラックのシガー用ソケットを外して、DC―ACインバーターを差し込むと、その一方にあかりの携帯電話をつないだ。

 岸本の膝の上に、あかりが倒れてきた。どうやら気を失ったようだ。

「おい、大丈夫かお前っ! ……くそっ……。もう少し長目に携帯電話を充電したかったが、女がこれでは仕方がない……」

「いっそ死んでもらったほうが、行動がラクじゃありませんか? 岸本さん?」

「ダメだ。それでは、郷原との信頼関係が完全に壊れてしまう……。急ごう石塚。Uターンして港だ。じきに俺がセットした時限爆弾が爆発する。江川たちはそちらに気を取られていなくなるはずだっ」

 岸本は、石塚を急き立てた。

 一方、岸本とあかり、石塚を取り逃がした江川夏実である。

「だ、大丈夫ですかっ!! 夏実さんっ!!」

 夏実を女王として従う男が、撃たれた足を引きずり夏実に駆け寄った。どうやらかすり傷で済んだようで、何とか歩けるようだ。夏実はジャンパーからハンカチを取り出し、しきりと右目を押さえていた。眼の中に思い切り砂が入ってしまい、痛むようだった。もう一人がそんな夏実を支えた。

「ううっ……、岸本め、よくもっ……」

「しかし、計画通り岸本にすべての罪をかぶせるには、充分すぎるほどの証拠があの廃工場に残っています。岸本はずっとあそこで、爆弾を作り続けてきたのですから……」

「あとは上手い具合に官邸をこちらに引き付け、国内の指令系統が手薄になったスキに部隊を手引きすれば……」

「そうね。導師に知らせましょう」

 夏実がいい終わるか、言い終わらないか。

 急に背後が明るくなり、火柱が上がった。江川夏実は眼をひんむいて、顔面蒼白――。

「ま、まさかっ……!! 岸本め、あの廃工場にある証拠を爆破した?!」

「おい見ろッ!! 火柱だぞッ!!」

 振り向くと、原発建屋のほうから人がやってきた。皆、防護服を着ていた。

「あッ!! あ、あんたたち、防護服も着ないで何やってんだッ?! さては、自動車整備工場に住み着いた過激派だな?!」

「チッ……!!」

 部下の一人が舌打ちして、夏実を振り返ったが、夏実は呆然としていた。

「ねぇっ……!! に……、西は……? あたしたちと一緒に来たでしょう……?」

「あ……。そ、それが……。我々が岸本を追いかける間、あの整備工場の証拠を保全しに行くと言って……。え、えと……」

「うそっ……、うそよ……」

 夏実は、顔面蒼白で後ずさりした。そして、炎に向けて走り出した。部下の一人が止めた。向こうからは防護服に身を包んだ原発職員たちが近づいてくる――。

「放してッ!! 正和さんがッ!! 正和さんがあの中にッ!!」

「ダメです!! 夏実さん!! あなたまでっ……!!!」

 部下たちは、泣き叫んで駆け出す夏実を取り押さえると、夏実を担ぎ上げて急いで車に乗り、走り去って行った。

 

 

**

 岸本は、背後で明るくなった空を見て、思わず息を呑んだ。思いのほか、火が回るのが速かった。周囲の枯れ草のせいか――。

「と、とにかく脱出しましょう!! こ、このままでは原発に火がっ!!」

 原発まで炎が広がる前に、逃げなければ――。石塚の運転する軽トラックは、Uターンして原発の脇に止まった。充電時間がわずか過ぎて、携帯電話は1回しか使えない――。しかし、これに賭けるしかなかった。

 岸本は気絶したあかりを背負うと、夜の闇にまぎれて、原発の崖の下を伝って行き、崖下の波間に係留しておいたモーター付きボートに乗り込んだ。今なら、原発に残って夜通し作業している連中も、爆発に気を取られてこちらは手薄になるはずだ。

「行きますよ、岸本さん!」

「ああ。とにかく、立ち入り禁止区域から出よう!」

 二人は頷きあうと、モーターを回して真っ暗な波間に漕ぎだしていった。赤く燃える空を見つめながら、寒風の中、モーターボートは波を切った。ここから数キロ離れた河口の水門に向かう。水門から川を上り、車を置いてある堤防を目指す。

 しばらくすると、コトリと小さな音がした。

「うん?」 

 思わず足元を覗き込んだ。k気絶したあかりの手から、何かが落ちた。

 拾い上げてみるとそれは――。

「……さっきの鍵……。なんだコレ……。安っぽい印鑑型のキーホルダー……」

 ん――?? 印鑑……???

 よく見ると、それは、金色で四角い形……。土産物屋に売られているような印鑑キーホルダーは、大抵円筒形で、だいたいが認め印に使えるよう、わかりやすい苗字が彫られているのが普通だ。

 しかしこの印鑑は、ひっくり返してみると、表面には赤い水銀加工がなされており、独特の美術的な気品があって、彫られている文字はよくわからないけれども、「王」と読めるような文字が刻まれていた。

「ま、まさか――。郷原の部屋で見つからなかった不比等ふひとの金印って、もしかして――」

 思わずあかりを揺さぶった。

「おいッ!! おいお前ッ!! 起きろッ!! このキーホルダーをどこで手に入れたッ!! 起きろったらッ!!」

「うう……」

 あかりはぼんやり目を覚ました。

「そ……、れ、返して……。郷原さんに渡すの……」

「郷原の鍵なのかっ?!」

「う、うん……」

 あかりは小さく返事をするのが精いっぱいで、岸本の膝の間で再び気を失った。

「………………」

 異変に気付いて石塚が、操舵を自動に切り替え岸本の手の中をのぞき込んだ。

「岸本さん、これって――」

 連中が喉から手が出るほど欲しがっている、本物の不比等の金印なんじゃ……? と、つぶやいた。

「……郷原のやつ……。まさか、キーホルダーにして、女に渡していたとはな……。誰もこんな、安っぽいキーホルダーに、とてつもない価値が……、王権を手にできる価値があるとは思うまい……」

 本物の、金印――。

 石塚は、しばし考えると「岸本さん、俺、いいこと考えました」と言い出した。

「うん??」

「本物の金印ってことは――。それでクリシュナと、取引できるってことですよね……??」

「……そうだな……。しかし……」

 もしこれが本物の金印であるなら、とてつもない切り札であるから、慎重に使わなくては、と岸本は言った。

 「だから」と、石塚は言った。

「俺とここで、別れてください」

「ええ?」

「船に潜入している仲間たちが、行動を起こすんでしょう?」

「……その予定だが――」

「だから金印を、誰が持っているのかわからない状態にするんです! 今、ここで――」

「何?」

 岸本は顔を上げた。水しぶきが頬を濡らした。

「計画に失敗は許されない。かく乱は多いほうがいい。俺は本気です!! 何が何でもあの悪党に、一泡吹かしてやりたい!!」

 石塚は力強く笑った。確かに――。情報をかく乱させるなら、今ここで仲間割れしたほうがいい。それに、警察も自分たちを追っている。分散して逃げたほうが捕まるリスクも減る。ならば――。

「……わかった。なら、これを持って行け石塚」

 岸本はそう言って、あかりのリュックを差し出した。石塚は受け取ると、中に札束が入っているのを見て驚いた。

「100万近くある。これだけあればしばらく潜伏することも可能だ。そのまま逃げることも――」

 石塚はきっぱりと言った。

「俺、逃げないです。船で耐えている蓮沼さんたちのためにも――」

「………お前が決めていい……。俺たちの無茶な計画に、お前まで付き合うことはない」

「いいや!! 俺、分け前もらうまで諦めないっすよ!! 絶対確実だって言ったじゃないですか岸本さん!! 船の蓮沼さんたちだって、みんなそのために頑張ってるんですから!!」

「………………」

 岸本は、頷くと、それでもリュックを石塚に託して厳しい表情をした。遠くに警察の赤色灯と思しき灯りが揺らめくのが見えた。

「……その前に、俺たちは一番難しい仕事をしなくては……。主要道路にはすでに検問が敷かれている。どうにかそれを突破し、この携帯の最後の充電で、郷原を呼び出す……。女が、持てばいいがな……」

「………………」

 石塚が見下ろした北山あかりは、唇を真っ青にして、ガタガタ震えていた。失血のせいで体温が余計に奪われているようだ。どうにか、最短で郷原悟に、女を渡してしまわなければ――。

 

 

 

**

 北山あかりが、腰を撃たれ、岸本たちと逃走していた頃。田代と川嶋が、血相を変えて郷原の部屋へ飛んで来た。

「郷ちゃん、入るよ?!」

 声をかけ、ドアを開けるなり、うわっとのけ反った。郷原が朝と同じ作業を延々と、狂ったようにやり続けていたからである。朝、田代が届けた弁当は、そのまま手もつけられていなかった。

 さすがに、郷原を止める田代であった。川嶋は唖然として、郷原がかじりついていた地図を見た。

「な、なんだこれは……?」

「ご……、郷ちゃんッ!! もうやめてッ!! ちょっと休もうよ、ねぇ……!!」

 田代が羽交い絞めにすると、体力の限界に来ていた郷原は、やっとよろよろと黒い点をしるし続けていたF県周辺の拡大地図から離れた。

 その地図を見た田代は、おどろいた。北関東……。I県とT県と、F県が接触した山間のあたりにだけ、ぽっかりと、不思議な空白地帯が浮かび上がっていたからだった。

「……ここにあかりさんが……?」

 思わず地図を見て、つぶやく田代であった。郷原は首を左右に振った。

「わからねぇ……。無心で占いに聞きつづけたら、少しずつズレて、そうなった……。俺はずっと原発の半径20キロ圏内……、立ち入り禁止区域に北山がいると感じていたのに……。最初のうちは、そっちのほうを指示していたのに、だんだんズレて、そこだけが空白に……」

「もしかして、移動している……? あかりさんと犯人が……?」

 田代は自分で言って、ハッとした。

「そうだ、原発ッ!! 大変なことになったんだよッ!!」

「大変なこと……?」

 郷原は、消耗しきった顔で田代を振り返った。田代は慌てふためいたように、郷原の部屋のテレビをつけた。

 民法各社、NHKも、どこのチャンネルでも、原発のすぐ近くの自動車整備工場から出火し、それが伸びきった枯草に引火して、野火のように火炎の波となり、原発を取りまいている様子を伝えていた。

 絶句する郷原である。

「な……、なんなんだこれ……」

 田代がさらに血相を変えて、声を荒げた。

「それからッ!! 今しがた警察から正式に連絡が来たッ!! 警察では、北山あかりさんのこれ以上の捜索を打ち切ると……!!」

「な、なんだって?!」

 郷原は両手の拳を固く握った。あかりを見捨てる――!? 警察が――!? そこにいるかもしれないのに――!!!

「くそッ!!」

 郷原は壁を拳で叩いた。川嶋が説明した。

「実は、寺本組の関係者……、原発作業員をあっせんしている手配師の男から、先ほど連絡があってな。誰かが原発の近くの道路で口論していて、銃声が聞こえたそうだ」

「ほ、本当かっ?!」

 思わず、川嶋に詰め寄る郷原である。川嶋はしっかり頷いた。

「ああ。本当だ。女の悲鳴も聞こえてきたと……。気になってその手配師が外を確認しに行くと、汚染水を溜めたドラム缶が野ざらしになっている手前にある防風林の道路に、血が付いていた。そしてカラの薬莢も……」

 川嶋はそういうと、その寺本組関係の手配師が撮影して、送信してくれた画像を郷原に見せた。確かに道路に、真っ赤な血がボトボトとしたたり落ちたような、点々がついている――。

「血痕は途中で途切れていた。そこから先は、わからない……」

「ま、まさか……」

 郷原は、嫌な予感で冷や汗が噴き出すのを感じた。体中が震えた。

「北山っ……!!」

 夢で見た、天使と黒龍のお告げ――。あかりは今生、すでに死ぬことが決まっていると――。

 あの、夢の中でが見せたビジョン……。確かに、誰かがあかりの手を引っ張り、車に引き上げようとしていた。あかりはそこで撃たれて……。

「岸本だ……。北山を連れ歩いているのはたぶん……」

 さきほどから胸が熱い。じっとしていられない。この感じ……。理屈を超えた深い部分からやってくる、この衝動……。

 川嶋は、後ろから郷原の肩を叩いて言った。

「俺は情報提供してくれた手配師の男や、他の作業員たちが心配だ。明日、明るくなったらヘリを飛ばそうと思っている。F県第一原発には、平安ファイナンスからカネを借りている債務者がかなり居るんでな……。死なれたら大損害だ」

 そういうわけで今夜は休め。明日、一緒にF県第一原発へ向かうぞ、と、川嶋が郷原を促すと、郷原は「いや……。俺は行かない……」と言った。

「なぜだ。寺本の親父さんが明日になったら、防護服とヘリを出すと言ってくれているんだ。有難くあの子の捜索に使わせてもらおうじゃねぇか」

「………………」

 郷原は、自分が今まで無我夢中で格闘していた地図を掴んだ。

「ご、郷ちゃん、まさか……」

 田代が、思わず覗き込んだ。郷原は青ざめてはいたが、決然とした表情だった。

「ご、郷ちゃん……!! 無理だよ、探せっこない!!」

「待て郷原!! 明日、明るくなってから寺本組でヘリを出す!! 上空からのほうが早いぞ!! そのころには防護服も用意できるし火災も収まるだろう」

 川嶋も田代に加勢して、郷原を押しとどめようとしたが、郷原はその手を払った。

「……これは、俺を試している……。クリシュナは言っていた……。波動関数を打ち破れと……。量子状態は、観測した瞬間に波束が収縮し、未来が確定する。それは占いとまったく同じ……。つまり、理屈はわからなくてもいいから、摩訶不思議な直観に身をゆだねろということ……。占いに、身を任せて進めば、クリシュナの元にたどり着ける……。たぶんそういうことだ……!!」

 郷原は、すぐにいつものように、白いシャツに袖を通して、ネクタイを結び、スーツの上にトレンチコートを羽織った。

「な、なぜそんな服を……?」

 川嶋と田代が眼を丸くすると、郷原は「これが俺の戦闘服だ」と言った。

「俺は、俺の思う通りに行動するっ!! この地図の場所へ行くっ!!」

「お、おい、郷原ッ!!」

 川嶋が呼び止めたが無駄だった。郷原はそのまま、車のキーを取った。

「……北山に命の危険が迫ってるんだ! もう待てない……。それから……」

 郷原は川嶋を見た。

「原発作業員たちが心配なんでしょ? 川嶋さん……」

「ああ。準備でき次第、すぐに原発に向かう」

「なら――。信じてもらえないかもしれないけど、占い師からの忠告だ」

「うん?!」

 郷原は身を寄せると、川嶋にそっと耳打ちした。川嶋は驚愕の表情をして郷原を見返した。

「そ、そんなことが……?!」

「この部屋はクリシュナに監視されている……。あとは黙って俺の言うとおりにして。星の動きがおかしいんだ。すごく嫌な予感がするんだよ。占いなんて信じられないかもしれないけど……」

「わ、わかった!! お前の占い、外れたことはない! 言われたとおりにするさ!!」

 郷原はそれを聞くと、少し笑って部屋のドアを出ていった。

「あ、ご、郷ちゃんッ!!」

 田代は呼び止めたが、郷原はそのまま振り向きもしなかった。それから郷原はホテルの駐車場に置いてある、自分の愛車、ランボルギーニ・ムルシエラゴに乗り込んだ。

「待ってろ北山ッ!! 必ず見つけ出してやるッ!!」

 郷原は叫んで、車のイグニッションキーを回すと、アクセルを思いっきり踏み込んだ。

 

 

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