ケン・ウィルバー哲学と超次元占星術の融合

哲学者ケン・ウィルバー。

 わたくし、酒井日香が大好きな思想家であります。その思想に最初に触れたとき、私は腹の底から感動し、感服し、そして、まるで地獄の中で仏さまと出会ったような安心感に満ちた、素晴らしい心持になりました。今までいったい誰が、私の苦しみをここまで代弁できたでしょうか。以来、彼の著作はすべて読むぞ、と決意し、現在まで4冊ほど。まだまだその膨大なすべてを読み切れているわけではなく、学びとしては浅いことは重々承知なのですが、今日はこのケン・ウィルバーとこれから先の占い業界の展望、ケン・ウィルバーと占星術の未来について書いていきたいと思います。

 

その前に、哲学者ケン・ウィルバーとは?

 詳しくはこちらの→Wikipedia をごらんください。

 

1、酒井日香とウィルバーとの出会い

 私がいかに長らく占星術を憎み、占星術をいかにして「ブッ潰すか」に生涯を捧げてきたか、私の初期からの読者の方はご存知のことと思います(「超次元占星術」をやるようになってから私を知った方は、今では立派な(?)占星術講師に身を堕とした私が本来は占星術アンチだ、ということをご存じないかもしれません)。

 とにかく占星術を憎み、恨みました。今でもまだその感情が払拭できたわけではありません。だから、「占い大好きです!」と無邪気に言える人がうらやましい。好きだ、などと思えたことは本当に、自分自身が世間知らずだったティーンくらいまで。本格的に占星術を学び始めてからは苦しみの連続でした。それはなぜか。

 

 それは、占いはとにかく「みにくい」からだ、という、その1点であります。

 占いは醜い。とにかく醜いのです。しかし、若い私にはその醜さの正体が何なのかということを上手く説明できませんでした。ここを見事にすべて、ひとすじの漏れもなく本にしたためてくれた人こそ、このケン・ウィルバーなのであります。

 つまづきの最初は、「心理占星術」と「サビアン」でした。今でも真剣に心理占星術なるものをやっている方々がおられることは理解していますが、これがどうもダメなのです。この人たちは根本から間違えていると思えてなりません。

 私は自分の著書、「超次元占星術大全 上巻 思想・理論編」にも書きましたが、よく「星先心後」なのか「心先星後」なのか、そこをよーーーーーーーくみなさん、考えてくださいとお願いしています。心理占星術がおかしいと思うのは、まず、人間の心理がすべて星座や、星座に宿った惑星や、アスペクトなどの影響を受けているということを、なんの考察もしないまま無邪気に振りかざしている点です。

 月が例えば、何かの星座宮に宿るときに生まれた人は、感受性やリアクション、雰囲気、無意識領域まですべてその星座宮のエッセンスが宿るのだ、というような論調です。こういう態度のことを私は「星先心後型占星術」と呼んでいます。たとえば私は、月星座がおひつじ座。おひつじ座のキーワードは積極性、リーダーシップ、開拓者的、進取的であるから、私のパーソナリティも万事おひつじ座のような反応をするだろう、という決めつけであります。活発で、怒りをセーブできないというのも、おひつじ座に与えられたレッテルです。

 占星術を習う最初は、なるほど、そうか、と思うのです。私は月星座おひつじ座なんだと。だから元気で明るくて率直なんだと。確かに怒りをセーブできないし、すぐ怒っちゃう。ダメだとわかっているけどやってしまう。それはおひつじ座だからなのだと。

 それで心理占星術の人に「じゃあ怒らないためにはどうしたらいいのでしょう」と尋ねても、当たり障りのないことしか言いません。怒る前に三秒数えてみたら? とか、怒ったところでそれがあなたらしさなんだからいいじゃない、みたいな無責任なことを言うのです。

 でも、「星先心後」で、おひつじ座が私のパーソナリティを作ったのであれば、作られた客体である私はどうすることもできません。もし怒りがセーブできず、誰かを殺してしまって、検察で動機を訊ねられても「月星座がおひつじ座だから仕方ないんです」といえば許されるのだということになります。

 これが無茶苦茶な論理だ、ということは、よほど頭のおかしい人でなければご理解いただけると思います。だから「星先心後」の論調の占星術全部が無責任極まりなく、そして危険思想なのです。それを具現化しているのが特に心理占星術だ、ということなのです。心理占星術はまた「心理」と枕詞に入れて、無知な人に「心理(学)占星術だ」と思い込ませる詐術を用いているところも指摘しておきたいところです。とにかく「こころ」を「ホロスコープ」に持ち込むとロクなことがありません。もちろん、占星術家の大部分は、「あなたがおひつじ座の月を受け取りたくないならそれはそれでいい」とは、言うのですが――。でも、さんざ、星という根拠を示せないものをバックに背負って私について語ってくれたあとそんなことを言われると、DV彼氏とやっていることは同じじゃないかとも思うのですよ。さんざひどいことを言って、こちらが反論すると、とたんに謝ったりひっこめたりする。これでは「二枚舌」「ダブルバインド」です。やられるほうはなんともいえない居心地の悪さで、私はそれがどうにも気持ち悪くて長らく苦しみました。

 じゃあ、星(ホロスコープ)が私の心を作ったのではない、となると、「心先星後」ということになってしまうわけですが、ここでまた多くの人が悩みます。

 え? 心が先?? どういうこと??? と――。

 実はこれこそが、真に占星術思想が言いたいことなのでありまして、この視点で考えていかないと万事、「心理占星術」を標榜する人たちと同じ過ちをすることになります。彼らは「星先心後」なのです。だからなんだか、おひつじ座、という単なる星の並びが、私のたましいを産んだ、とでもいう勢いの論調で、私の感情反応性やリアクション、何を好んで何を嫌がるかまで、全部それで語ろうとします。この論調で行けば、たとえば何かでものすごく努力して人一倍汗を流し、何かを掴んでも「ホロスコープが良かったからだ」ということになってしまうでしょう。自分が逮捕されても、「だって仕方がないよ。僕のホロスコープでは火星と天王星がハードなんだもの」と言えば、検察が理解してくれ、裁判長も無罪判決を出してくれると思い込んでいる、とてもマトモじゃない論理です。なんとも幼稚ではないでしょうか。

 

 私はここに、ものすごく長い間苦しみ続けました。心理的虐待と同じ構造なのだから苦しんで当然なのです。ダブルバインドは心理学的にやってはいけないことです。

 

 そこから考えて、誰も苦しめない占星術にするためには、どう考えても「心先星後」にするしかありません。「星先心後」ではなく、「心先星後」です。こころがまず先にあり、それから星(ホロスコープ)ができたのです。しかし、初心者は、それだと理屈が合わないと感じます。なぜなら、宇宙のほうが自分よりはるかに長生きだからです。自分が生まれるよりも先に、太陽はあった。月も木星もあった。いて座も、かに座もあった。だから自分のほうが宇宙の「被造物」なのであって、自分が持っているこころが宇宙全部を「創造した」とは、ちょっと考えられないのです。だから心理占星術がもっともらしく聞こえてしまう。出生のホロスコープに乗っ取られ、支配され、ホロスコープのフレームという檻の中から出られなくなり、一切を星に結び付けてしまうようになる。これではホロスコープの情けない奴隷です。

 しかし、世界はどこで生まれているのでしょうか? 宇宙はあなた以前に本当にあったのでしょうか?

 

2、「隻手の拍手」

 

 隻手(片手)しかない人は、どうやって拍手するのでしょう。音を鳴らしたいと思ったら、どうしたらいいのでしょうか。両手がある人ならば手と手を叩けば音がする。けれども、隻手ではそれはできません。でも、鳴らしたいのです。

 それで、隻手は、1本しかない腕でひとまず自分の腿を叩き、顔を叩きます。この隻手が自分自身を叩き続ける「ビンタ」によって万物を意識が認識しているのです。目に飛び込んできた刺激を脳が処理して、我々は見事なマーヤー(幻)を観させられているのだが、じゃあ脳ではかりきれない、脳の中にもみつからない、しかし音を鳴らし続けている「隻手」はどこにある?? この、決して脳でもなく、肉体じゃなく、目に見えるものでもなく、触れることができるものでもないけれどすべてをとっぱらっていくと、どうしても「ある」としか言えないもの――。世界というビンタの刺激を喰らい続けているもの――。つまり、たった一つの根源の「何か」は、いつから我々とともにあったのでしょうか。

 

 世界中の宗教が言います。「隻手」こそ、宇宙の最初であると。

 宇宙とはすなわち、最初の「隻手」が自分で自分を叩いて喰らい続けているビンタの刺激なのだと。

 

 それは最初から死にも生まれもしていない。万物はそこから生まれ出でてきた。だから太陽系はもちろん、お隣のアンドロメダも、はるか遠くのクエーサーも、木星も火星も、それが今、私に見られている以上、私によって作られた私の被造物なのだと。宇宙が主体なのではなく、私のほうが主体で、むしろ彼らを産んだのは私の奥底に最初からある消えない「隻手」なのだと。

 

 これが「心先星後」思想です。そして、そういう観点で他の占いを見てみると、たとえばこの「隻手」とは、イーチンが至高とする1なる「太極」のことではないでしょうか。タロットカードの4つのスートのエースは、どれも「隻手」です。空中に現れた手がシンボライズされているが、それはタロットを産み出した人たちが「隻手の拍手」を知っていたからとしか思えません。

 神秘学はこのように、要所要所で「隻手の拍手」を暗示しています。すべてはここから生じる。死とはこの隻手が、隻手であったことを思い出すことであると。そしてまたいつか「拍手がしたい」と思うのです。そのとき宇宙はまた、あなただけのために生まれます。あなた自身が手を叩くからです。みることができる一切すべては「隻手自身」ではありません。つまりホロスコープは、こうして手に取り、見ることができる時点であなたではないのです。ふたご座もかに座も、てんびん座も、空を見上げれば見ることができるのですから「あなた」ではありません。

 じゃあ、どうしてこんな幼稚な、本末転倒な状態に占星術が陥ってしまうのかというと、ここからケン・ウィルバー心理学の出番なのです。

 

 ウィルバーは、人間の心の発達には段階があるのだと言います。それかこちらの、「意識のスペクトル図」です。↓  ↓  ↓

 この図表は、上から下にくだるに従って実際は「低次」から「高次」になってゆきます。一番上がペルソナ/影ですが、その次が自我/身体です。そして上から三段目が環境/有機体ですが、その手前にケンタウロスという領域があります。自我/身体のレベルから環境/有機体に移行するとき、ケンタウロスという特殊な状態を経ます。そして一番下が宇宙です。なんとこころと意識が宇宙と一つになるレベルまで、ウィルバーは含めているのです。

 

 ウィルバーのこの模式図は、本によって、語りたいテーマによって微妙にデザインが変わっていきますが、彼が提唱している心理学とはつまり「低次心理学と高次心理学の融合」なのです。

 

 これをさらに別の本で解説した図表が下のようなものになります。↓  ↓  ↓

 

 これで見て行くと、最初の図に示したペルソナ/影の領域は1・2・3のあたりで出て来る「低次心理」であります。自我/身体のレベルも低次心理学的ではありますが、そこからだんだん自我が広がり社会や環境を意識するようになり、4・5・6のあたりに来ます。数字が上がるたびにいっそう「非エゴ」「脱個性」になっていきますがまだこころの広がりは中程度です。もう6の段くらいになると、だんだん「非エゴ」「脱個性」が色濃くなり始め、宇宙と自分のたましいは一つなのではないか、大いなる1があって、そこから万物は生まれて来たんじゃないかと感じ始めます。もうこのあたりはお坊さんとか、聖者の生き方を指向し始めてくる感じです。4・5・6でグレーになって「高次心理」が顔をのぞかせ始め、最後の7・8・9がいかにして宇宙と一つになるかです。生死さえも超えた境地に至るための段ということで、ここは完全に「高次心理学」です。残念ですが場合によってはこの7・8・9の階層まで来られないケースもあります。しかし、来ないことにはいつまでも「エゴ」「わたし」の奴隷で、苦しみが減ることはありません。人間がまさに精神的な病から回復するとか、人格障害やうつ病、双極性障害などから回復していくためには、「高次心理学」によって「低次のこころ」を引っ張り上げる必要があります。人はけっきょく「わたし語り」「自分語り」「思い込み」をブレークスルーして「無境界」に近づいていき、宇宙即我の境地を目指さないかぎり、精神疾患やパーソナリティの悩みから回復できないのです。なぜなら人間のメンタルの苦しみは「自分は死ぬ!!」という、どうしようもない絶望から来るのであり、だれもみな自分の死に対してそれなりの決着をつけてゆかねばならないからです。

 

 人間は、すべての人間に死という末路がある以上、太陽星座がどうとか、月星座こうとか、そういうもの一切関係なく、すべての人間が「特定の心理的成長」をしていくしかないのです。心の成長とは何かという定義についてウィルバーは、「エゴから非エゴ」「私から私の外」、「境界から無境界」へと、常に一つの方向へ向かって進んでいくことだと言います。私が、私の外へ向かい続けて、最後宇宙と同じ幅になることができたら、そこに始めて「隻手」がいるのだが、それは広がっているというよりは「深さ」なのであり、人間の心の発達とは「広がる」というイメージで語られがちだが実際は「深み」「深さ」なのであり、それは定量化できないと言います。(ウィルバー著「万物の歴史」第二章に詳しい)。

 

 そして意識の発達は「はしご」のようなイメージです。生まれる直前直後がスタートだとして(※生まれるとはどのあたりなのか諸説あるため絶対の固定はできませんが)、ひとまず人間はこのはしごを登るしかありません。

 

3、心は9つのF(フロア)

 さて、もう一度、「意識の基本的構造」の図表を掲げましょう。↓  ↓  ↓

 

 この図を、1~3のあたりまで解説していきましょう。

 まず第一段階、1-感覚物質的のスタートは生まれたての赤ん坊です。赤ん坊はまだ、どれが自分で、どれが自分以外なのか理解できません。だからママと一つなのです。ママは自分の一部です。ひたすらに外部からの刺激を受け続け――、すなわち「ビンタ」をされ続け、脳を発達させていきます。自分のげんこつが自分の手であることすらわからないので、手を口に入れたり、毛布をしゃぶったり、積み木を舐めてしまいます。まだ外部と自分の境界がわからないのです。

 しかしだんだん生後数か月になると、口に入れたげんこつを噛むと痛いこと、ベッドから落ちると痛い、転ぶと痛いことがわかってきて、「自分自身」と「自分でないもの」との境界をなんとなく理解していきます。しかし、ママはまだ自分とどこか一つで、自分が思う通り、期待する通りにしてくれるのが当たり前。転んだら抱き起こしてくれ、お腹が空いたらごはんをくれ、寂しければ添い寝してくれて当然の世界です。実はこの「ママと分離できていないことから起こる“してくれて当然感”」が、このあと、第二段階、2-空想的・情動的のレベルで発現してくる魔術願望、おまじない趣味、願掛け、アファメーション、占いなどの病理の「前振り」「伏線」になっている点に注意してください。

 2-空想的・情動的レベルでは、赤ちゃんの「どこまでが自分でどこまでがその他なのかわからない」という感覚を引きずっていますので、こころもその通りで、「自分がこうあって欲しいのならそれは叶うはずだ」という前提で生きている状態です。ここまで読んで占い師のみなさん、どうでしょうか――。「彼氏から連絡がいつ来ますか?」とか、「霊能者にまじないをかけてもらえば彼氏から電話が来るはずだ」とか、「惑星や星座のご機嫌を取れば奇跡が起こって難関試験に受かるのじゃないか」とかの心理傾向をほうふつとさせないでしょうか。そしてみなさんは日夜、このレベルの課題を乗り越えられていない、赤ちゃん時代のつまづきを抱えたお客を日夜相手にしているのです。

 ここが少しマシになって大人になってくると、3-表象的心のレベルに発達します。シンボルと概念の理解です。いくら彼氏から連絡が欲しいと思って呪術的思考に支配されたところで、この世はすべて手続きの世界であり、しかるべき心と意思を持ったものがしかるべき手段を用いることでしか具体的な結果は出ないということを、あきらめとともに学んでいきます。「彼氏が私に何か月も連絡してこないのはなぜ?」占い師に聞けばそれは「忙しいから」とか、「彼氏はあなたを愛しているけど今は忙しいみたい」と言いますが、この段階では違います。彼氏があなたに電話を何か月もしてこないのは、あなたが単に嫌だからです。もう会いたくない、でもこじれてしつこくされるのも嫌だ、だから忙しいとかなんとか、こじつけているだけだという「至極当たり前」の、「魔法でもなんでもない世界」を体験するのがこの3-表象的心の段階ですが、ここでようやく「この世界を支配している手続き」を学んで、挫折や苦しみとともに4-規則/役割的心のレベルに進んでいき、ここからようやく大人らしいこころと意識を培っていきます。

 境界性人格障害がしばしば、年を取れば自然に治っていくと多くの精神科医が指摘するのは、まさにこの2-空想的・情動的レベルから3-表象的心のレベルを痛感することで、あきらめが起こり落ち着くということでしょう。あきらめるというのは、心の発達には絶対に欠かせないことだと思います。

 

 ウィルバーはこのように、こころの発達とは、「水滴の移動」のようなもので、水滴の大部分は次のはしごの段を登っていても、ごくわずか、またはかなりの部分を下の階層に残してしまうことがあり、それを迎えにいっていずれ統合しなければならないと言います。

 したがって、人並みにさまざまな苦しみ、葛藤、悩みを経験して、それを乗り越えたはずの20代や30代の人でも、場合によっては40代でさえも、赤ちゃん期にとっくに通り過ぎたはずの1-感覚物質的の段階や、2-空想的・情動的の段階がけっきょく乗り越えられていなかった、統合できていなかったということで、これがいわゆるインナーチャイルドとか、アダルトチルドレンとか、境界性パーソナリティ障害や発達障害などとして噴出することがあるのです。どこか3-表象的心のレベル、手続き世界を受け入れたくないのでしょう。

 

 この段階の心理的発達問題が、実は占いの現場や心理カウンセリングでは頻出します。占い師のみなさんにはぜひ、ここはポイントとして覚えておいていただきたいところです。私がこの記事の冒頭で述べた、なぜ占いは醜いのかという答えが、けっきょくここなんだということです。占いのお客さんの大部分は、1、2、3レベルの心理的発達段階でつまづき続け、そこにとどまり続けている人々だということです。

 そして占星術も、12星座占いとか、雑誌のくだらない占い特集とか、Twitterでひたすらホロスコープ語りしている人とか、心理占星術とかサビアンとか、ほとんどがこの1、2、3レベルの心理発達のまま止まっている、ある意味「ガキっぽい」人が主な消費者なのです。占い師たち自体が1、2、3レベルで成長が停滞しているからこそ、占星術で魔術的に「わたし語り」したがるのです。もちろんここから脱却して、さらに上の成長をし、高いレベルから人に占いを施せる人もいます。ウィルバーのこのモデルで言うと7、8、9の「高次心理」からホロスコープ鑑定、ほかの占術でも、できている人もいます。ただし数は多くありませんが――。

 そして、実はウィルバーは、ユング心理学がメインにする「元型(アーキタイプ)」というものの大半は、この1、2、3の低次心理から現れてきたものだ、と、下の図ではっきり説明しています。↓  ↓  ↓

 この図は、詳細の解説ははぶきますが、向かって右側が「こころを無視した表面だけ、観察できる側だけを論じる陣営」で、向かって左側が「表面だけではうかがい知れない心の深みや解釈の世界を論じる陣営」です。ウィルバーの最初の図表と同じく上に書かれている名前ほど「意識の基本的構造」の低次心理的部分の論客であり、下に書かれている名前ほど高次心理学の論客です。

 問題なのが向かって左上です。どうでしょうか――。フロイトとユングがまっさきに挙げられています。つまり、心理占星術をやっている人たちが軸にし、理論の根拠にしているフロイトやユングはここで「低次心理学だ」とウィルバーに明確に位置づけられているのだということです。私が「心理占星術おかしいじゃないか!!」と指摘するのは、まさにウィルバーの指摘通りで、ユングの「元型論」自体が私も、なんか幼稚だな、くだらないな!と思っていたのです!! 稀代の哲学者、現代トランスパーソナル心理学の旗手ウィルバーが、私が長年感じ続けてきたことを完全に書いていてくれたのです!! これは本当に胸がスカッとし、ようやく苦しみが軽くなったのです。それぐらい「星先心後型占星術」は苦しいのです。

 占いのシンボルの多くが(※けっして全部ではありません)、心理占星術論者が言う通り元型なのであるなら、占いのシンボルの大半は幼児的な願望が幼児的に、自分の我欲を満足させるために作った幼稚なものだ、ということになってしまいます。けれども占いのシンボルは、先ほども解説したように、タロットカードの小アルカナのエースがすべて「隻手」を思わせるような「空中から出現した片手」であったり、イーチンの至高が「太極」であったりするように、どう考えても7、8、9のレベル、非常に高度な「高次心理学」の世界から人間世界に降ろされたとしか思えないシンボルもたくさんあります。

 この1、2,3の領域――、呪術的・魔術的階層は、なかなか意識化するのは困難です。なぜなら意識化してしまうと、いかに自分が自己中心的で、幼稚で、思いやりのかけらもなく、ガキであるのかと直視せざるを得ないからです。ユングの元型論では、「太母」とか「トリックスター」とか、「老賢者」などの、古今東西の物語に頻出するイメージを語りますが、ウィルバーはユングの「元型」とは実にこの階層から出てきたものなのであり、実のところそれは「深層無意識」などではなく、現実は「浅層意識」なのであると言い切っているのです。

 

 そして心理占星術陣営は、占星術の惑星のシンボルなどはおおよそ、ここ(1、2、3階層)から出て来たものだ、ということを認めないで、これは深層心理の深い奥底から現れた元型なのであると主張しますが、ではなぜ占いはこんなに醜いのですかと逆に彼らを問い詰めたくなるのです。私はそれで苦しみ続けたのです。こんなものが「隻手の拍手」であるはずがないと。この領域のままでは人間は絶対に永遠の真理に至ることはできず、永遠にビンタに苦しみ続けて、ビンタの痛みに呻き続け、やめてくれ!と泣き叫びながらなお、永遠のビンタを喰らい続けることになるのです。

 近代心理学で語られている「深層無意識」とは単に、なんで「無意識」なのかといえばただ、本人が認めたくなくてみないふりをしているだけのものなのです。見ようとしないものがこの世には存在しないのと同じで、そこをフロイトもユングもちょっと(だいぶ??)説明不足なのです。本当の、「完全なる深層無意識の底の底」は「隻手」です。

 タロットはそのあたり非常に精巧につくられていて、私は「隻手の拍手」を知ったとき、タロットのシンボリズムの本質が一気に理解できました。エリファス・レヴィやアーサー・E・ウェイト、クロウリーがいかに天才だったかと思い知ったのです。

 占星術はしかし、高次心理学の階層のシンボリズムが巧妙に隠されています。あたかも「バカ振り落とし器」のようになっていて、心理的発達がまだ1、2、3階層でとどまっている人には占星術のシンボルの本当の姿はけっして見えないように作られているのです。

 それが「ネイタル占星術」。出生のときのホロスコープでああでもない、こうでもないと言い続ける占星術です。しかしだからといってホラリー(古典)が安全かというとそうでもなく、ホラリーにもF2~F3階層のシンボルがごろごろしていて、少しでも誤ると道をそれてうんこまみれの田んぼ(F2~F3階層)にドボンです。我々は慎重に、1、2、3の階層のシンボリズムから、7、8、9のシンボリズムへと進んでいかねばなりません。

 

 しかし1、2、3階層だらけの占星術や、他の数秘術とか、くだらない人生相談レベルの占いもそうなのですが、だんだん嫌になってくるのです。どうして嫌になってくるのかと言えば、そこのどこでも宇宙の根底たる「隻手」とは会えないからです。「隻手」がいるのは7、8、9以上なのです。私をビンタし続けている「隻手」に、「もうそれを止めてくれ!」と言わない限り、隻手がビンタをやめることはありません。つまり、階層がいつまでも下のままとどまるということは、この身と心を焼き続ける痛みの刺激に泣きながらも、それを産み出し続ける火元を無視して、水をください、水をくださいと言っているようなものです。

 

 「パーソナリティ」を語ること――。おひつじ座の月がこうとか、火星と天王星のオポジションがどうとか、さそり座だからあなたの芸術表現はダークネスっぽいのね、とか、ADHDがどうだとか、発達障害とか、それの全部が「低次心理学」なのです。だからホロスコープでパーソナリティ語りされたとたんに、占星術が秘める「7、8、9以上」のみずみずしく、生き生きとした躍動が殺されてしまうのですが、有名占星術家にいくらそういって喧嘩を売っても、いくら叫んでも誰も理解してくれず、私はこのまま疲れ果てて死ぬんだなと、ウィルバーと出会うまではもう絶望しかありませんでした。でも、ウィルバーがその通りだ! 日香は間違えていない!! と書いてくれてあって、私はもう生涯ウィルバー思想でいいと思ったのです。本当に救われました。できればご本人に心からありがとうと言いたいくらいです。

 

 だから私が考案した超次元占星術は、ウィルバー心理学の下に置かせて欲しいと思います。占いのシンボリズムをすべて、「どれがどのウィルバーの心理モデルの階層から立ち現れてきたものなのか」ということを、精査する必要があると思うのです。それが酒井日香の占星術だし、これからはそのように変わっていく必要があると思うのです。ケン・ウィルバーこそ新しい「心理占星術」、ほんとうの「心理占星術」であり、超次元占星術はウィルバー思想に従うことを高らかに宣言し、従来の占星術や占い業界に挑戦していくのでありました。

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