CHAPTER3、導師クリシュナ(1)

 その頃――。

 ちょうど地球の反対側、アメリカ・アリゾナ州。

 ソノラ砂漠にある巨大水素燃料実験場「ソノラシティ」では、日本国外務省科学技術企画部の上田部長が、行方不明になった部下、宮下広夢みやしたひろむの捜索を、このソノラシティの持ち主である研究財団ウィオスの幹部に頼んでいるところであった。

「ど……、どうか、アリゾナ州警察を呼んでくださいっ!! この財団の自警団だけで宮下を探すよりも、州警察に捜索を依頼したほうが……」

 ハゲたタコのような頭を、真っ赤にして、恐縮しつつウィオスの本部長ゼネラル・マネージャー――、クリシュナ、と呼ばれている肌の浅黒い男――、に懇願する上田だったが、クリシュナは首を左右に振った。

「それはできません。この水素燃料実験場……、ソノラシティは、軍事機密もたくさん……。アリゾナ州当局との取り決めもあり、まずは我々の私設警察が宮下広夢氏の捜索を行います。あなたがたは、その結果をお待ちください」

「そ、そんなっ……! そ、それではこのソノラシティは……」

 治外法権ちがいほうけんだと言うのですか?! と、上田部長はクリシュナに詰め寄ったが、クリシュナは残念そうに首を左右に振った。

「そもそも、いくらIQがずば抜けて高く、6か国語を自在に操ることができ、科学技術や宗教問題のエキスパートだからといって、ADHD……、ええと……、そうそう……、日本語で、“注意欠陥多動性症候群”と言うのでしたか……。そういう、行動に問題のある人物を、通訳として抜擢し、この大切な水素燃料電池プラントの視察団に同行させた日本政府に問題があるのです。きっと物珍しさでふらふらしているうちに、精製水貯水槽か、循環システムに落ちてしまったのでしょう」

「ああ困った。だから反対だったんだ私は……。いくら志垣さんの推薦とはいえ、あんな問題児を、この大切な水素燃料電池実験場視察団に加えるなどは……」

 上田が頭を抱えているうちに、この巨大水素燃料電池実験場……、通称「ソノラシティ」を管理している研究財団ウィオスの、本部長クリシュナは、いつの間にか姿を消していた。日本から来た官・民合同の視察団は、やむなく現地解散となり、あとはウィオスの私設警察に任せることとなった。

 日本からの視察団が滞在しているレセプションホテルを出て、自分の研究棟に戻ったクリシュナは、建物の中の小さな部屋にしつらえた秘密の祭壇に戻ると驚いた。

 自分がこの場所を離れている間に、何者かがこの祭壇の気を乱したようだ。鼻に入り込む微妙な空気でわかる……。微細なプラーナの流れが変わっている……?

「何者かが、この部屋に侵入した……?」

 研究財団ウィオスの本部長にして、呪術師でもあるクリシュナは、眉をひそめた。このように、思念だけで場の空気をかき乱すなど、生半可な人間にできるはずない。

「まさか宮下……。あの日本人か?」

 思わず背後のドアを振り返った。2日前に捕まえた、日本から送り込まれた外交官の泥棒……。日本の国費で、マサチューセッツ工科大学に留学し、首席で卒業した認知行動学者……。手ごまにするための洗脳プログラムを今、施しているはずだが……。

 気にかかり、立ち上がると廊下へ出た。すると、ドアの向こうに、駆け抜ける真っ白い毛玉が……。クリシュナは思わずのけぞった。

「うわッ!! い、犬ッ!!」

「あら、ごめんなさい」

 老女がすすっと寄ってきて、毛足の長い小型犬をふわりと抱き上げた。思わずひぃッと悲鳴を上げて、飛び去るクリシュナだった。

「ごめんなさいね。キャンディが、そこの部屋へ勝手に入ったみたいなの」

「な、なんてことをッ!!」

 クリシュナは慌てた。急にくしゃみが出た。真っ白い犬は激しく尻尾を振って、クリシュナに飛びつこうと暴れていた。

「主人の執務室はどこだったかしら?」

 真っ白いテリアを抱いた夫人は、クリシュナの様子に無反応である。クリシュナはティッシュで鼻を押さえながら、窓の外を指さした。

「メイナード氏の部屋なら、この反対側の廊下の奥です。お間違えになったのでは……」

「あらいやだ。そうなのね。久しぶりにここへ来たから忘れちゃったわ。でも、キャンディには懐かしいわよねぇ。ベンがずーっとここの研究室で、お前を飼っていたのだもの……」

 老女はそういうと、コロコロと笑った。クリシュナは片眉を寄せて困惑顔を作った。

「……やたらな部屋へ犬を入られては困りますね。とくに、この研究所には科学薬品のたぐいも多い。キャンディにもしものことがあれば、私が天国のメイナード氏におとがめを受けてしまいます」

「ホホ……。ごめんなさい。キャンディにはうれしいのよ。懐かしいこの研究所にまた来られて、かわいがってくれたあなたに会えて……。ところで、いったいどうしたの? 研究所の入り口に日本人がたくさん……」

「日本政府からこの燃料電池実験場を視察に来た外交官が、一昨日から行方不明になっているのです。水素燃料電池プラントを見学中、中の精製水貯水池に落ちてしまったかも知れないというので、今、自警団が探しています。じきに見つかるでしょう。もっとも、生きてはいないかも知れませんが……」

「そう……。同じ日本人として気になるわ。早く見つけてあげてちょうだいね、クリシュナ」

「はい奥様」

 そういうと老女は、ホワイトテリア種の小型犬、キャンディを抱えて廊下の奥に消えていった。この老女は要注意だ。一族のご意見番……。

(夫人に船での式典、パーティーに出席されると、何かと不都合だ。このまま上手く誤魔化せればいいが……)

 クリシュナは老女が消えたのを確認すると、廊下の突き当りの秘密の扉を開けた。

 その先の目立たない、細い階段を手探りで降りていき、いくつかの曲がりくねった廊下を下ると、小さな掃除用具を入れる部屋に入った。そこに閉じ込められている、太い黒ぶちメガネをかけた小柄な東洋人の男の前に立ち、男の耳に当てられたヘッドフォンをむしり取って「今、何かしたのですか?!」と、男に英語で問いただした。

 東洋人の男は怪訝な顔をして、英語で返答した。

「何をしたって? 何もできるわけない。私はこの通り、ここに閉じ込められているのですから」

「違う。祭壇のプラーナを乱したのは宮下、あなたか? と聞いているのだ」

「プラーナ?」

 宮下、と、クリシュナに名を呼ばれた東洋人……。今、行方不明だと騒がれている日本の特務外交官・宮下広夢は眼を丸くした。クリシュナは言った。

「ミスター宮下。あなたは外交官でありながら、宗教学の権威でもあるという。意識の波動を読んで空気を乱すくらいのこと、できるはずでしょう」

「……失礼だが導師クリシュナ。今の私にそんなこと、できるわけありません。24時間絶え間なく、素晴らしき水素社会の実現に向けた、あなたがたウィオスの洗脳プログラムを聞かされ続けているのだ……。手までこうして、後ろ手に縛られてね……」

「……じゃあ、あの犬ころか。くそっ」

 クリシュナがティッシュで鼻をかんでいるのを見ると、宮下は言いたそうに、後ろ手を縛られたままゆっくりと起き上がった。

「いや……。犬なんかではありませんよ。何者かがあなたの祈りを邪魔したというのなら、それは、あなたがたウィオスが、偽りの後継者をたてまつったからです」

「偽りの後継者……?」

 クリシュナが宮下を見下すと、宮下は口角を上げて微笑んだ。

「出雲王朝を受け継ぐ者は、2000年前から男系の男児以外、認められたことなどただの一度もない。神代からの決まりを破ったのですから、神々のお怒りです。きっと」

「何をバカなことを。あれは、親族たち全員一致で決定したこと。第一、行方不明の跡取りとおぼしき男が見つかったのはつい最近……。今さら違う人物にはできません」

 クリシュナは、自分で起き上がったものの、上手く体勢を立て直せない宮下の体を、手を貸して起こしてやった。宮下は「ありがとう」と言って、ふぅ、と一息つくと、興奮した口調で続けた。

「それにしてもビックリしましたよ。日本政府の仕事で、官民合同視察団の通訳係としてここへやってきたら、あなたがいたのですからねぇ……。クリシュナさん……。ソマリアでゲリラに加わっていた日本人……、岸本正巳きしもとまさみさん……。お宅の系列の病院からある日突然、いなくなってしまって……。彼はどこへ行ってしまったのですか? 私同様、ウィオスの秘密を知ったせいで、どこかに監禁されているのですか?」

 疑われたことに反応して、クリシュナはオーバーなふるまいで言った。

「何をバカなことを……。我々はあの行き倒れの青年を助けてやったのですよ? 感謝されこそすれ、疑われるなど心外だ。彼が勝手にいなくなったのだ。その後の消息など知るわけはない。きっとどこかを放浪しているのでしょう」

「ふーん……」

 宮下は、後ろ手を縛られたまま、いぶかしがってクリシュナの顔を見上げたが、クリシュナはしれっとしていた。嘘をついているのは明らかだ。なぜなら宮下は、岸本本人から、ウィオスの本部長、クリシュナが怖いという手紙を受け取っていたから――。

 その手紙を受け取り、岸本を日本へ安全に返すべく、関係各省と調整を図っていた矢先、岸本は姿を消してしまった。クリシュナは絶対に岸本の居所を知っている。

 だが、容易なことでは口を割らないだろうし、変に刺激するのも危険で、宮下はこの件に関しては、これ以上踏み込みようがなかった。

「あなたがたウィオスはいろいろと、裏で何かしているみたいですから、出雲の神々もさぞや、日本が心配でしょうねぇ……。おちおち寝ていられなくて、あなたが呼び出した異教の神に抗議しに行ったのではないですか? ははは」

「くだらない」

 怒ったような言葉とは裏腹に、流しっぱなしのCDプレイヤーを止めて、体を起こした宮下の縛られた手を解いてやるクリシュナだった。宮下はそれを見て皮肉を込めた。

「もういいのですか? 洗脳は……?」

「……休憩にしましょう。やり過ぎてもよくない」

「上田部長たちはどうしています? 私がここで、あなたがたに捕らえられているのは知らないのでしょう?」

「……彼らは現地解散しました。あなたの捜索は、我々ウィオスの自警団に任せるそうです」

「薄情だなぁ。あのタコ坊主」

そう言って笑う宮下である。クリシュナの側近がやってきた。

「恐れながら導師クリシュナ。日本から電話が……」と言って、宮下の監禁部屋までコードレス電話機を持って来た。

 目の前に置かれた簡素な椅子に腰かけたクリシュナは、宮下の眼の前で日本人と会話を始めた。とても流暢りゅうちょうな日本語で――。

 宮下は聞き耳を立てていた。外交官として当然だ。日本の国益を損なうような事態を、少しでも避けたいという情熱が働いてしまうのだ。

 しかし、ウィオスに拉致されてわかったこと――。それは、日本の国にここまで「危険の芽」が育っていたのかということだった。あちこちでウィオスは、さまざまな国の内部にうごめく過激な思想を持った連中を、財力と宗教でコントロールし、世界中に自分たちの傀儡かいらい政府を作ろうとしているのだ。

 今だってクリシュナは、わざと日本の政府関係者との話を、宮下に聞かせている……。宮下の絶望感、危機感を煽るために――。

「ですから、来年1月末に行われる次の総選挙で、勝たせてあげればいいのでしょ? あなたがた保守党をね……。ええ。できますとも。世論を誘導することなど簡単……。そのかわり、あなた方が政権与党に返り咲いた暁には、わかっているのでしょうね……? そうです……。その通り。日本のPEFCに関する法案を、我らウィオスのビジネスに有利になるよう整備すること……」

(……PEFC……。固体高分子型水素燃料電池のことか……?)

 宮下はじっと会話に集中して、数日前に視察したウィオスの、巨大水素燃料電池実験施設を思い出していた。未来のエネルギーとして、最高にクリーンで、化石燃料に対抗できるという水素エネルギーだが……。

 宮下は、電話の向こうの日本人が誰なのか探ろうとした。しかし残念ながらわからない。わからないが、どこかで聞いたことがあるような――。

 男にしてはずいぶん、カン高い、特徴のある声――。

(うーん……。なんだか、聞き覚えのある声の感じ……。誰だろう……? 私が覚えているくらいの声だから、きっと国会会期中、かなり発言する政治家だ……。いったい誰……? 外務省にも通じている男か……?)

 宮下は、脳をフル稼働させて、空気を震わせ伝わる電話の向こうの声に集中した。若干一名、こんな声の調子で、国会で元気がよく、存在感があり、外務省にも通じていて、この手の悪党と平気で手を組みそうな男を知っているが――。

(でも……。やたらに人を疑うのもなぁ……?)

 宮下は、その名を口の中でつぶやくことをためらった。

 クリシュナは足を組み、呑気な構えで電話に答えていた。

「……つまり、どのような犠牲を払ってでもいい、ということでしょう。今の政権を転ばせるには、大きな花火を打ちあげればいい……。みんながビックリするような大きな花火をね……。こういうのを日本語では“祭り”と言うのでしたか。我々にお任せなさい。お祭りを始めるのは得意なのです。ええ。1月の第一週までには必ず、ね……。では」

「………………」

 宮下が、あんまりじっとクリシュナのほうを見つめるので、クリシュナは思わず笑い出してしまった。

「おお怖い。そんなに睨まないでくださいミスター宮下」

「……あなた、日本で何かする気なのですか?」

 クリシュナは答えずに、テーブルから立ち上がると、宮下が座っている粗末なベッドに戻り、自分も腰かけた。

「……私が宮下さんにしばしば、私の電話を聞かせるのは何故だと思いますか?」

 クリシュナは、指をパチンと鳴らすと、部下を呼んで、昼食の用意をさせた。浅黒い肌とウェーブした黒髪、長いまつ毛、真珠のように輝く白い歯……。クリシュナは見るからにインド系だ。インド人らしくやたらと紅茶が好きだった。やがて部下がトレイに乗せて、簡単なピザと紅茶を持ってきた。

 宮下は考えて、クリシュナの質問に返した。

「わかりません。ハッキリいって意味不明です。私があなたの立場だったら、敵かも知れない人間に、やたらに内部の話など聞かせないでしょうから」

「フフ……。いい答えだ。まぁ、お昼ごはんでもどうぞ」

「………………」

 言いながらクリシュナは、温かいピザと、色鮮やかなアップルティーを宮下に手渡そうとしたが、宮下は受け取らない。飲み物や食べ物をもらうことは、連中に恭順きょうじゅんしてしまうことに通じかねないからだ。監禁されてからずっとハンガーストライキ中である。トイレも我慢していた。

 クリシュナはそんな宮下に見せびらかすようにして、焼き立てのピザにタバスコを振りかけて、美味そうに食べると、紅茶で喉に流し込んだ。

「あなたは、なかなかサムライですね宮下さん。そういう人は嫌いではありません。だから、私はあなたのたましいと、あなたの肉体とを、分離させてしまうようなことはしたくない……。あなたとここで深くわかり合い、日本に返したのち、あなたと共にいい仕事がしたいと望んでいます」

「要するに、私に国を売れと」

「フフ……。物ごとは、捉え方次第。あなたの考え方を少し柔らかくなさいと、そう言っているだけです。こちらのほうこそ、あなたを個人的に訴えてもいいのですよ? あなたは、我が研究財団が所有する、出雲王朝の貴重な資料を盗もうとしたのだ」

「何を言うのですクリシュナ。あれは、GHQの神道解体令で、南米や北米に追放された竹虎家の親族が所有していた、竹虎家の宝……。所有権は……」

「所有権は、我々にあります」

「違う。あれは日本政府のものだっ!!」

「いいえ。あれは我が財団が、王朝の親族たちから譲渡されたものです。きちんと法的な書面もあります」

 クリシュナはゆっくりと、宮下の前で美味そうにアップルティーを飲んだ。宮下はおもわず鼻をひくひくして唾を飲んだ。クリシュナはティーカップを、意地悪く宮下の鼻先へと近づけた。

「あなたは日本政府に、王朝を認めさせようと頑張っているみたいですが、無駄です。今の日本には、もう出雲の王族など必要ないのだ。日本社会は長年、出雲王朝の末裔たちに、悲惨極まりない生活をいてきた……。彼らは、外国で活動をするほうが性に合っている」

「……そうして、彼らの名を、自分のビジネスに利用しようというのですか……?」

 宮下が言うと、またクリシュナへの電話だ。またしても日本から――。

 クリシュナは、紅茶を宮下の手元に置いて、ゆっくりと電話に出た。そして、受けた報告に眼を丸くした。

「なんと!! 見つからなかったですって?! ……ええ……? そのかわり女性を……? うむ……。少し待ちなさい……」

「???」

 クリシュナは電話の途中で顔色を変え、立ち上がった。そして、電話機ごと宮下の監禁部屋から立ち去った。宮下には何だかよくわからないが……。

 クリシュナは、戻ってこない。何かよほど緊急事態のようだ。宮下は今なら、誰も見ていないのに気が付いた。

「おわッ!! 紅茶、紅茶!! ピザもッ!!」

 宮下はきょろきょろして、クリシュナの食べかけだったピザを頬張ると、テーブルに置かれた紅茶を一気飲みした。ティーポットに残っていたのも全部飲んだ。何日も水分を取っていないから、砂漠に水が染み込むように美味かった。

 ついでにタバスコも拝借することにした。いざというとき、こんなものでも武器にできるかもしれない。

 

 

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