CHAPTER2、連れ去られたあかり(2)

 やがて現場に到着した川嶋と郷原だったが、川嶋は真っ先に社長室に置いてある、会社の金庫を確認した。案の上、金庫が開けられていた。

「ダイヤルロック式だぞ?! なんで暗証番号がわかったんだッ!」

 川嶋は憤慨ふんがいしていた。しかし、中身を確認してみると、社印、通帳、権利証書の類は全部無事だったし、現金も、川嶋自ら売り上げは東京日の出銀行に預けてあって、ここに置いてあったのは十数万円程度だったから、盗られてはいたが大した金額ではない。根こそぎやられていたらとんでもないことだったが、会社に大切なものは何一つ無くなっていなかったので、ひとまずホッと胸を撫でおろした。

 郷原のほうは、警備会社の人間から事情を聴いていた。なぜ警報システムが作動しなかったのか、賊が仕事を終えたあとで駆けつけるような、間抜けなことになったのか、問いただすためだ。

 警備会社の担当者は、恐縮きょうしゅくしきった感じで、自分たちに非はないことを郷原に必死にアピールした。

「見てください。電子制御盤にドライアイスが残っていました。それで警報システムがまったく作動しなかったんです。これではどうしようもありません」

「なぜ、ドライアイスだと警報機が鳴らないんだ」

 郷原が厳しい口調で聞くと、警備会社の担当者が説明した。

「はい。この電子回路は、急に水濡れして停止すると警報装置が作動しますが、ドライアイスですと、この電子制御盤の隣にあるガス給湯器のパイプとの温度差で、空気が徐々に結露し、じわじわと濡れます。そういう場合には急停止警報が反応しないのです。さらに、そのまましばらく放置すれば、コンピューター基盤は水が厳禁ですから、内部も確実に破壊できるという……」

「……じゃあ、ここと連動している社長室のドアが破られていたのも……」

「はい。この制御盤自体を破壊してしまえば、あとはピッキングで開けられるのでは……」

「金庫の暗証番号はどうやって?」

「……それは……。実のところ、鍵師の専門学校でも教えられていることですが、そう難しいことではありません。正解の数字にダイヤルが合ったときだけ、ごくわずかに独特な音がしてしまうのです……。まずは最初のダイヤルを、1から9まで試して、正解の音を聞く……。あとは簡単な数学のマトリックスで、残りの3つを割り出せる……。上手い人間なら3分もかかりません」

「……だとすると、犯人はよほどの熟練か……?」

 懐中電灯片手に、郷原は電子ロックの制御盤を見た。制御盤は、ガスのメーターや、電気のメーターと一緒に、入口脇の小さな扉の中に設置してある。その扉の鍵は普段、管理会社だけが持っていて、あとはガス屋と電気屋が、使用料を検針するときに開けるだけだが、犯人はまずここの鍵をどうにかして開けた、ということだ。

 別の警備員が、1階を見に行って戻ってきた。

「1階の階段へ続く防火扉のロックも、外されていました」

「じゃあ、階段から侵入したということ……?」

「犯人は、かなりのピッキング技術を持っているようですね。電子制御盤を、ドライアイスを使って濡らし、ショートさせたあと、電子情報と切り離された施錠部分をこれまたピッキングで開けたと……」

「……手口が妙にプロっぽい……」

 考え込んでいた郷原の元に、防犯カメラの映像を確認していた者から報告が来た。

「た、大変ですッ!! ひ、人が誘拐されてますっ!!」

「ええ?!」

 その声に、郷原はすぐさまモニターのほうへ向かった。警備会社の人間がビデオを巻き戻して、任意のところから再生すると、防犯カメラに、犯人グループが人間を一人肩にかついで、大急ぎで立ち去る様子が映っていた。

「な、なぜ……?」

 郷原が眼を見開いていると、警備会社の者が画像を巻き戻して、犯行の始めから再生させた。犯人は二人だ。ニットの目だし帽をかぶり、黒づくめである。先ほど説明されたような手口をやっているのが見えた。

 犯人グループが侵入して間もなく――。エントランスのカメラに、一人の女が――。

「ま、まさか――」

 郷原は、動揺した。見覚えのある、緩やかに肩までウェーブした栗色のつややかな髪……。あのジーンズ、薄いピンク色のセーター、黒いリュックサック……。どう見ても……。

「き、北山っ……!?うそだろ?!」

 思わず画面にかじりついていた。

 あかりの背後には、黒い車が映っていた。どうやらあかりはエントランス入口まで、車で来たようだ。

「タクシーのようですね」と、警備会社の者が言う。

「タクシー?」眼を丸くする郷原だった。

「どうしてタクシーなんか……。あいつは朝まで確かに、俺の部屋にいたのに……?」

 郷原のつぶやきを背後で聞いた川嶋は、冷や汗を感じた。あの子をタクシーに乗せて、無理やり郷原の部屋から追い返したのは、自分なのだ――。

 川嶋は目を伏せて、モニターを遠巻きに見る格好になった。

 やがて、あかりはうっすら開いていた防火扉に気付き、その奥の階段から2階へ上っていった。そして平安ファイナンスの空いていたドアを覗き込み、なぜだか中へ――。

 しばらくして、犯人グループの一人が、北山あかりを肩に担いでドアから出てきた。

「北山、襲われたのかっ!?」

 思わずモニターに叫ぶ郷原。警備会社の人間たちも顔を見合わせていた。

 やがて、もう一人の犯人が遅れて、ドアから出てきた。駆け足で階段を降り、北山あかりと見られる女を肩にかついだもう一人とともに、画面左側に消えていった。そこから先はわからない。

「今の女の子……、犯人を目撃したために襲われて、連れ去られてしまったんでしょうか……」

 警備会社の者が言う。

「……なぜ北山が?? なぜここに?」

 郷原が頭を搔きむしっていると、警備会社の者がピンク色の便箋と、同じ色の封筒、そして、謎の暗号が書かれたA4用紙を持って来た。

「こ、こんなものがホワイトボードに……」

 郷原はすぐに、もぎとるようにしてそれらを見た。A4用紙のほうには

 

        郷原悟様。お会い出来る日を楽しみにしています  
          |ψ(x,t) |²=ψ’(x,t)ψ(x,t)

 

 と、大きなフォントでプリントしてあった。覗き込んだ警備会社の者は首を捻ったが、郷原はそれを見て顔中を真っ赤にした。

「お会い出来る日を楽しみにしていますだと?! わけのわからないことをするっ!!」

 怒った仕草で、暗号がかかれたA4用紙を川嶋へ突きだすと、もう一つの「郷原悟様へ」と表に書かれた封筒と、便箋びんせんのほうを確認した。

 それを読み、思わず唇が震える郷原だった。あかりが、郷原が眠っている間に、平安ファイナンスの者にもう郷原には会うなと言われたこと、追い出されてしまって、借りたおカネのことをちゃんと相談できなかったことなどが書かれていた。

「ま、まさか――」

 追い出したのかっ?! と、郷原は、思わず川嶋に掴みかかった。

「北山は、自分で帰ったんじゃなかったのか?! なぜ、俺が寝ている間に追い出すなんてことっ……」

 川嶋は、慌てて肩をすくめた。

「し、仕方がないだろ郷原っ。お前は、いろいろ今後がある男だ。飯田継男の手がついた女の子など、遠ざけて当然だ。相手のためを思えばなおさらだ」

 川嶋は狼狽ろうばいしながら言った。郷原は、その理屈に黙り込んだ。反論などあろうはずもない。川嶋の判断は正しい。

「くそッ!!」

 思わず拳で、モニターがセットされた机を殴っていた。

「しかし、何だってこいつらは金庫を開け、現金を盗むのみならず、証拠を残すようなこんな、わけのわからん暗号を置いていったのか……? 郷原に対するメッセージのようだが……」

 川嶋の一言で、郷原はハッとした。

「…………!! まずい、ホテルにッ!!」

「おい郷原ッ!!」

 郷原は、川嶋の元から駆け出すと、矢も楯もたまらずすぐに定宿の、ダイヤモンドパレスホテルに電話した。客室係に事情を話し、室内を調べてもらったが――。

 

 

**

(かかった!!)

 テロリスト・岸本正巳きしもとまさみは、思わずかかってきた電話にほくそ笑んでしまった。他愛もない……。自分たちの予想通りだ。

 あとは内通している客室係が郷原の部屋の鍵を開けたあと、室内にもぐりこみ、ヤツが持っているはずだという、黄金の印鑑を探し出せば、それでいい――。

 内通者である固太りの、体格のいい男が、岸本に頷いて郷原の部屋の鍵を開けた。一人室内に潜入する岸本――。指紋が残らぬよう、両手にグローブを嵌めた。

「純金の印鑑か……。普通はそういうのって、通帳などと一緒に貴重品ボックスに入れてあるはずだ。書斎の机の引き出しか…?」

 言いながら、窓辺に置かれた書斎机のあたりを探す――。真っ先に、一番貴重品が入れてありそうな、一番上の引き出しを開けてみた。そこには何冊かの通帳と、郷原の認め印と思われる印鑑類が置かれていた。しかし――。金印は無い。

 さらに岸本は、引き出しの中の預金通帳を見て、少し違和感を覚えた。

 寺本組若頭補佐として、違法占い賭博のディーラーとして、悪辣あくらつなカネ儲けをしているはずの郷原にしては、どうにも額がみみっちい。通帳の履歴もごく普通の、ホテルの滞在費引き落としや、車の車検代、カードの引き落としなどだけである。

「……どうもおかしい……。もっとヤバい入金、出金履歴があるはずだ。暴力団員なのだから……」

 岸本は通帳を元に戻すと、首をかしげて周囲を見回した。仕方なくほかの引き出しの中を漁り、クローゼットを漁り、ドレッサーの引き出しも調べ、郷原のゴルフバッグの中や、バスルームなどを探し回ったが、金印と思われる物は無い――。

(もしかして、ベッドの下――?)

 そう考えて這いつくばり、ベッドの下を犬のように覗きながら回っていたら、何やら汚い布きれが落ちていた。思わずつまみあげてみた。

「なんだよこれ……。ったねぇシャツだなぁ……。血とゲロがついていやがる……。男の一人身じゃあ、洗濯なんて気が回らないか」

 岸本はつぶやいて、座り込んだ。さて困った。あるはずだと言われて忍び込んだが、金印なんてどこにもない。やはりもう一方の有力な関係先である、平安ファイナンスの金庫の中に隠してあるのか――?? それともあるいは――。

(もう一つどこかに、別の隠し場所を持っている――??)

 だとしたら完全なクリシュナの調査不足だ。しかし……。

 岸本は考え込んだ。

 この状況で、自分にできる最善の行動とは何か――??

 クリシュナが、郷原の持っている金印をなんのために探しているのかといえば、金印自体に莫大な値打ちがあるからなのは当然として、この部屋に仮住まいをし、寺本組の賭博場で占い賭博のディーラーをしているこの郷原悟が、間違いなく「あの」郷原悟であるのか、本人確認したいからだろう。

「要は、こいつが本当に、あの家系の人間なのかどうか、確認できればいいんだろ?? そうすりゃあ、たとえどこかに金印を隠していたとしても、こいつ本人を揺さぶればいい」

 だったら――、と、岸本は、床の上に落ちていた汚いワイシャツに眼をやった。

「金印の代わりに、DNA鑑定じゃあダメなのかな――??」

 シャツに付着した血液や唾液……。確実な本人確認になるはずだ。

「………………」

 岸本は考えて、ポケットに入れてきたビニール袋を取り出すと、顔をしかめて郷原の汚れたワイシャツを回収した。となれば、長居は無用だ。さっさと立ち去るに限る。

 しかし、立ち上がって部屋を後にしようとした岸本の眼の端に、書斎机の上の、赤と緑のクリスマスカードがよぎった。

(んん?? 何だこれ……?)

 思わず手に取った。そこには、郷原の姉のみすぼらしい姿と、看護人からの添え書きが……。

 岸本の胸に、在りし日の、少年だった郷原の顔が過った。

 人に話せる思い出などなにもない少年囚同士、家族の話はほとんどしなかったが、それでも、姉について語るときだけは、郷原はとても優しい眼をしていたのを覚えている――。

 岸本は、何かを振り切るように、クリスマスカードを元に戻すと、決然とホテルの部屋を出ていった。もう賽は投げられたのである。後戻りなど出来はしないのだ。悪いのは、自分自身から逃げ続けてきた郷原だ。

「郷原ッ!! バカッ!! この状況でホテルに電話などッ!!」

「あ――」

 郷原は、川嶋に揺すられてようやく正気に返った。

「部屋が気になるのなら、今すぐ自分で見に行けッ!! ヤツらの仲間がダイヤモンドパレスホテルに居ないと、言い切れないぞッ!!」

「ううっ……」

 郷原は、耳に当てていた携帯電話を下すと、チッと吐き捨ててすぐに平安ファイナンスの建物を飛び出していった。ホテルに戻り、自分自身で部屋を確認するのだろう。

 それを見届けて川嶋は、真夜中だったが、田代英明たしろひであきに電話をかけると、事態を説明した。

 田代は川嶋の報告を聞くと「ドライアイスで電子制御盤を破壊?!」と、そこを反復した。

「なんだ田代。どうした?」

 川嶋は思わず問い返す。田代は「うーん……」と唸ってから、川嶋に答えた。

「それ、アフリカ系の、貧乏な国の不良ガイジンがよくやる手口だ……」

「貧乏な国の不良ガイジン?」

 思わず言葉尻を捕らえる川嶋だった。田代は寝間着姿のまま、よく眠っている直人とお婆ちゃんを起こさぬよう、タバコだけを持ってアパートを出た。

「そう。東アフリカに、ソマリアっていう国があるだろ? あそこは80年代から、隣国エチオピアとアメリカ、ロシアの代理戦争を受け、泥沼の内戦が今も続くこの世の地獄……。無法地帯……。そのソマリアのゲリラは、安い材料で大量に作れるドライアイスを使ったテロが得意でね。それをマネした不良アフリカ人が、俺のシマ、新宿でもたびたび会社強盗などを働いた。今聞いたその手口……。それにそっくりだよ川嶋さん……」

 田代の記憶を聞き、川嶋は思わず声を潜めた。

「じゃあ、アフリカ系不良ガイジンが、この件に関わっている……?」

「可能性はある。そもそも、出会いがしらの無抵抗な女の子を、気絶させて連れ去るなんて、よほどの凶悪犯だ。こういう大胆なことをするのは大抵不良ガイジンだ」

「なるほど……。お前は、その線を調べられるか?」

 川嶋が鋭い目つきで聞き返すと、田代は電話の向こうでしばらく考え込んだ。

「うーん……。もしかしたら、公安調査庁のデータベースで、可能性のある人間を調べることはできるかもだけど……。ただなぁ……」

「ただ、何だ?」

「公安調査庁のデータベースは、よほどのハッカーじゃないと見られないし、部外者にはとても……」

 うなりつつ、考え込んでいた田代だったが、不意に「そういえば」とひらめいた。

「そういえば、平安ファイナンスが使ってた警備会社って、どこだったっけ?」

 田代が聞くと、川嶋はすぐに答えた。

「三田にある凄腕警備保障すごうでけいびほしょうだ。実は、警察の天下りがいるその警備会社を、警視庁幹部から強引に押し付けられてな……。それでなんとなく頼んだのだが……。今回のことでぜんぜん使えない連中だとわかった」

「……凄腕警備保障……」

 田代はアパートの玄関先で、タバコをふぅっと真冬の空気に吐きだした。

「……あそこの役員に確か、元新聞社の記者がいなかったっけ?」

「いる。確か木下というヤツだ。元は夕日新聞の警察番。記者クラブ付きだった」

「……その木下さん、俺に紹介してくれないか川嶋さん。ちょっとカマかけてみたいんだ。もしかしたら凄腕警備、警察の下請け仕事をもらったり、警察上がりの人間のリクルート先として警察内部とズブズブかも……。もしかしたら、元番記者経由で、公安調査庁や国家公安委員会の極秘文書を持っているかも……」

「なるほど。わかった。木下には話を通しておこう。こいつは現役時代、オフレコの話を何度も紙面に上げて、たびたび揉め事を起こしているからな。叩けば脅すネタはいくらでもある。まとめてメールしておこう」

「ああ。頼む」

 川嶋は田代に朝一番、すぐに調査を開始するよう依頼した。

 それから、平安ファイナンス統括本部長の門倉かどくらを呼び出して、現場の警備員の指揮をするように頼んだ。警察に北山あかりの捜索願いを出すのであれば、寺本厳を通じて、それなりの警察の偉い者を動かさねばならない。

 川嶋はとりあえずの段取りをつけると、平安ファイナンスを出て、自分のボスである寺本厳に事態を説明するため、いったん先ほどの料亭に戻って行った。

 

 

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