第十五話 CHAPTER5、突入(2)
シュンシュンと、やかんの口から湯気が噴出す。
さっきまで戦場のように緊迫していた空気が、だいぶやわらいでいた。
それでも床に転がされた谷中と、縛られた池田の構図が、まだ緊張感の残滓を漂わせていた。ここは制圧されたばかりの砦なのだ。
「こりゃあ、リフォーム呼ばないとダメかもな……」
そこここに、血痕が染み込んだ店内を見回しながら、田代がつぶやいた。モップで擦ったくらいでは、落ちそうにないほど、床のじゅうたんが血で汚れていた。
郷原の左肩からは、まだ出血が続いていた。拳銃を奪い合って谷中と揉みあったときに、谷中に撃たれた傷であった。
銃弾は体をかすめているので、致命傷ではないが、それでもだいぶ深く肉が抉られ、骨が多少砕けているようだった。相当痛むのをかみ殺しているようで、その額に脂汗が滲んでいた。
「あの……」
琴子が、郷原の肩の傷に、タオルを当ててやろうとした瞬間、谷中が眼をひん剥いた。
「琴子っ! お前は引っ込んでいろっ!」
「は、はいっ……!」
琴子の眼に、怯えの色が浮かぶ。まさか、嫉妬――?? 田代は一瞬、下衆の勘ぐりでそう思った。
縛られていた池田が、不意に懇願の声を立てた。
「わ、悪かった。承認のことならもう諦める。今回は誘拐なんてして、本当に申し訳なかった! あの写真がドアの前に貼られて以来、わ、私は毎日生きた心地がしなくて……。ただ、謝ろうと思ったんだ……! 攫ってでも、じっくり話せば、きっとわかってもらえると思って……。まさか、拳銃を持ってるなんて思わなかったけど……。頼むっ、もう許してくれと、あんたらのボスに言ってくれっ!! あんたたちの恐ろしさ、つくづく身に染みたよ!!」
池田は、必死の形相でうなだれていた。体が括られているので、頭を下げるしかできないのだが、土下座でもしそうな勢いだ。
「俺たちのボス? 承認? 写真?? なんの話だ……??」
郷原が、苦痛に顔を少し歪めながら、池田を睨んだ。
「と、とぼけないでくれ! あんたたち、針陽薬品公司の関係者だろう? 中国マフィアの……。それがなぜ、山本くんと一緒にいるのかはわからないが……」
「ああ……??」
痛む肩を押さえながら、眉間に皺を寄せる郷原だった。話がまったく見えない。
浜崎が、急に後ろから口を挟んだ。
「そういえば、俺がファミレスで向き合ったさっきのリーゼント男も、中国がどうのとか、先生がどうのとかって言ってたな……。あんたら、何をしてるんだ?」
「ちょっと待て。お前ら、俺たちを何と勘違いしている? 俺は中国マフィアなんか知らねぇぞ」
「じ、じゃあ、近藤を殺したのは、あんたたちじゃないのか……?」
池田の上ずった声に、山本が思わず身を乗り出した。
「え? 殺された? 近藤さんが?」
「ああ。ものすごく残忍な方法で……。死体は4日前、羽田沖で見つかった。身元不明死体として……。警察発表を聞いて私にはすぐにわかった。その死体は近藤だと。い、いくら私と近藤が、時雨製薬と組んで、同じ薬の承認を針陽薬品と争っていたからって、こ、殺すことはなかろうに!!」
山本はそれを聞いて、一瞬で肌があわ立った。
(なんだコイツ……。タマを狙われている可能性があるな……)
星を見て近藤の身の上を、そう予想していた、郷原の先日の占いを思い出していたのだ。
「もうやめろ、池田さん。こいつらはだから、中国とはまるで関係ないんだよ。さっきからそう言っているだろう? あんたが近藤の死体写真で脅迫されて、パニックになってたところに、たまたま、こいつらの妙な呼び出し電話がかかってきただけだ。真相を問い詰めようとこの男を攫ったら、どういうわけか拳銃を持っていて、こんなマヌケなザマになっちまったが……。お前たちは何者だ? まさか、ただの素人だなんて言わせない」
「まぁね……。俺は占い師だ」
「う、占い師、だと……?!」
谷中が眼をひん剥いた。池田も唖然とした顔をしている。カウンターの隅でうつむいていた琴子が、顔を上げて郷原を見つめた。
「ま、まさか、占いで俺たちのことを、嗅ぎ付けたとでも……??」
首をかしげてみせる郷原である。しかし、首を動かすと、同時に傷口が痛んで、思わず上体が伏せった。
「イテテ……。ま、そんなところ……。信じる、信じないは勝手だけど……。お星様が俺にいろいろ教えてくれたのさ。あんたらの悪事のことをな……」
「は、はははっ……! 冗談もいい加減にしろっ……! 占い師だと……? ふざけるなっ!!」
谷中は縛られ、転がされている自分の無様な姿も忘れ、一笑した。
「ふざけてねぇよ別に、谷中さん……。あんたが必死で、面倒を見ていた飯田継男のことも知っている。六本木のクラブ “デスティニー”……。知ってるだろ? あんたが援助している飯田継男の秘書が、飯田の代理でよくその店に来てな。そこでお客を取っていた俺に、どっかから仕入れてきた株のインサイダー情報が本当かどうか、占わせてたぜ?」
「う……、そういえば聞いたことがある、飯田の秘書に……。悪魔のように未来を言い当てる占い師がいると……。お互いに誓約書を取り交わし、占いが外れたときにはそれ相応の代償を払うと約束する、気狂いの占い師……。それがまさか、お、お前なのか?!」
「クク。知っているなら話は早い。近々、大人物の占い鑑定を控えていてね。その爺さんに、俺はあるゲームの勝敗を予想してみせなきゃならない。ただ、せっかくの政財界のドンが遊びに来るわけだから、俺たちも多少サプライズを演出してやろうと思ってな。たまたま、そこにいる山本先生が、詐欺に合ったのをきっかけに借金でコケたから、んじゃあ山本先生をハメたやつの弱みを握って、山本先生とゲームに参加させたらかなり楽しいんじゃないかってよ……。俺たちの狙いは、山本先生をハメた池田理事長ただ一人だ」
「ゲ、ゲームだと……?? わ、私が、山本くんと……?!」
「フフ……。池田理事長は、純朴な山本先生を、たくさん騙していたでしょう……? この際、白状したらどうなんです。里親協会の理事長という肩書きと、元役人という肩書きを利用して、いろいろえげつないことしてきたはずだ。人身売買とか、臓器売買とか」
ガタンと、椅子が倒れる音がした。琴子が口元を押さえて、顔面蒼白になっていた。
「ぞ……、臓器、売買……??」
「こ、琴子っ……! お前は家に帰っていなさい! お前はこんなこと、知る必要はないっ!!」
谷中が、怒鳴った。
「う……、ううん! 聞くわあたし……! 本当のこと、ずっと知りたいと思ってたもの……。あの、う、占い師さん……。話して……。詳しく……!」
郷原は、琴子のほうを振り向こうとしたが、傷口が痛んで思うように体がねじれない。さっきから、傷のせいで悪寒が始まっていた。
大量に出血すると、その後で高熱が出る。傷口から大量に体内に侵入してくる雑菌を殺すため、白血球が活動しやすい温度になるよう、自然の摂理でそうなっているのだ。
「……俺に聞くより、そこの池田理事に聞いたほうが、いいんじゃねぇの? すべて何もかも、真相を知っているだろうからな……」
琴子は黙って、そのまま郷原の隣に来た。どうやら、琴子は谷中にひどく怯えているらしい。どうしても近づこうとしないのだ。
(自分を身受けしてくれた男が、括られているのに、側へ近寄ろうともしない……。よほど恐いんだろうな、谷中が……)
そう琴子を分析する田代。田代は、暴力団担当のいわゆるマル暴勤務が長かったため、さんざ、風俗店や飲食店の一斉検挙をしてきた。そこで働かされていたホステスたちが、経営者に怯える様子が、今の琴子の態度と、とても似ている気がした。
郷原の上体が、ゆらりと大きく傾いた。
「だ、大丈夫ですか?!」
側にいた琴子が、郷原を受け止めた。
「離れろっ……!! 離れろ琴子っ……!! わ、私以外の男に触れるなど、許さんっ……!!」
「………………」
琴子は谷中の言葉に、思わず一歩下がってしまった。
「だいじょうぶか、郷原さん!!」
山本が、郷原の上体をキャッチした。田代が、それをさらに支える。相当な熱が噴き出していた。
「マズい……。早く抗生剤を打たないと……!」
「そうだな。おい、浜崎くん。池田さんだけ、俺たちと来てもらおうじゃないか。飯田議員のことは俺たちには関係ない……。池田さんだけ来てもらえば、あとは事足りる」
「わかったっス。おい立て。一緒に来てもらうからな」
浜崎は、そういうと、田代とともに、池田をトイレのドアノブに括り付けていた自分のニットガウンを解いて、ガムテープで胴体を腕ごとぐるぐる巻きにし、ついでに口にもガムテープをべったり貼って塞ぐと、下手人を引っ立てるおかっ引きのように、池田を連れて店を出た。
外はもう、すっかり朝の眩しさだった。郷原は、山本に支えられながら、店を出て行こうとしていた。その時だ。
「ま、待って……!! あたしも連れてって……!!」
「………?」
郷原は、熱でふらつく首を、声のするほうに少し傾けた。視界の中に、まだどこか、大人になりきれていない少女のような、華奢な琴子が映った。
「あ、あたし、まだ最後まで聞いてないわ! 臓器移植のこと!」
「い、行くな琴子っ!! 今までのことなら悪かった!! もうお前に手を上げたりしないっ! お、俺を一人にしないでくれっ!!」
谷中の、悲痛な叫びである。この状態で店内に一人取り残されたら、どうなるのだろうという恐怖と、手をかけた女に去られる悲しみとが一緒になって、谷中の声を震わせていた。
「パ……、パパ……。ごめんなさい……。あたし、知りたいの本当のこと……。りえがどうして助かったのか……。パパにも、飯田さんにも、奥様にも……。とっても感謝しているわ……。でも、あたしはもう……」
谷中が、琴子のために外界へと開かれたドアに向かって、芋虫のまま叫ぶ。
「琴子っ……! 行ったら娘が、りえがどうなるかわかってるのか?! お前が俺の元から去るというのなら、娘がどうなっても知らないぞ!」
「んだと……」
郷原の眼に、赤い閃光が走る。山本の肩に捕まっていた体を、山本を突き飛ばすようにして離すと、店内に踵を返した。
「やっ……! やめてっ……!!」
琴子が止めるのも振り切って、郷原は、ほんの一瞬前まで立ち上がるのもやっとだったのがウソのように、谷中を一心不乱に蹴りまくった。
「やめろっ……! 郷原!」
山本と琴子が、必死に郷原を抑えようとするが、怒りに火がついた郷原には、誰の声も耳に入らない。谷中の顔が、激しい暴行で見る間に変形していった。
「や、やめて!! やめてっ……!! 死んじゃうっ……!!」
琴子が、谷中の上に覆い被さるようにして、谷中を庇った。その瞬間、郷原の蹴りが琴子の横っ腹にめり込んだ。それでも、その衝撃に耐えて、谷中を守る琴子だった。
「どけ……、コラ……、こんなクズブッ殺してやるから、どけってんだよ女……」
「やめろっ!! やめろよ郷原っ……!!」
山本が、必死で郷原の体を止めていた。琴子は、谷中の胸の上で泣いていた。
「も、もうやめて……!! やめてっ……!! お願いっ……!! やめてあげてっ!!」
琴子の濡れた瞳に、郷原は一瞬、忌まわしい記憶が重なって怯んだ。その目――。いつかの自分と同じ――。郷原も、今の琴子と同じようなアングルで、泣きながら誰かを守ったことを思い出した。琴子は、女である。郷原は、男だった。だから、立ち向かった。そして余計にひどい返り討ちにあった。もう、思い出したくない、これ以上は――。
「うっ……、わかったよ……。やめてやるよ……、ケッ」
郷原はそういうと、カウンターによろける体を預けて、自分を支え直した。涙に濡れた瞳を、そのまま郷原に向ける琴子であった。
「あの……。この人、もう解いてあげてもいいですか……?」
「……好きにしろ」
肩を上下させて、郷原はぶっきらぼうだった。激しい衝動のせいで、更に熱が燃え上がったようだ。その場に力なく崩れていった。
「だっ、大丈夫か?! 郷原!!」
山本が郷原を覗き込む。いつの間にか呼び捨てになっていた。
琴子は谷中を括るガムテープをすべて解くと、携帯電話を取り出してどこかへ電話をかけた。谷中はすっかり気を失っている。やがて誰かが応答したようだった。たぶん、谷中の部下なのだろう。
「あ……、あのっ……、み、店に来て……。谷中さんを迎えに……。ええ、そうなの。また酔いつぶれて……。ええ。動けないから、3、4人で来てちょうだい」
それだけ言うと携帯を切り、山本と二人で、なんとか郷原を支えた。ちょうど店の目の前に、田代のデミオが横付けされたので、どうにかそこまで郷原の長身を、渾身の力で引きずる琴子と山本であった。
後部座席にはすでに浜崎慎吾が、池田をふん捕まえたまま乗っていた。田代の車に大人6人は乗れないので、誰かタクシーで来てもらうしかない。しかし、郷原は血まみれだ。タクシーに乗せるわけにも行かないので、とりあえず郷原をぐるぐる巻きの池田の隣に押し込むと、浜崎は田代の車から降りた。琴子は女だから、お尻を詰めればどうにかリアシートに座れそうである。郷原を押し込めたついでに、自分も郷原に寄り添うような形で、リアシートに収まった。
それを見て、苦笑ぎみに眉を潜める田代だった。
「琴子さん、いいの? こんなどうしようもない、どヤクザ男の隣で……。チャカ持って突っ込むような男だよ? バカが移る。助手席側に来たら?」
「あ、大丈夫です。座れたし……。実は、今動くとこの人まで、ずり落ちそうな気がします」
「あ、そう……。んじゃあ、山本先生は助手席に乗れるな。浜崎くんがタクシーだ」
田代はそう言って、一人車外に残った浜崎を見た。浜崎は、口元に黒ゴマのような髭が芽を吹き、眼が徹夜でしばしばと疲れていた。昨日よりかなり老けてみえる。
「そんじゃあ、みなさんのちほど。マジで疲れた」
「俺もだ。このひと晩で一気に年を取った気がする……。とにかく帰ろう。んじゃあ琴子さん、行くよ?」
「はい。でも、もう琴子じゃありません。本名は北山……。北山あかり、と言います」
「北山あかりさん、か……。じゃああかりさん、とりあえず俺たちと一緒にな」
「ええ……!」
熱と痛みに浮かされながら、郷原は、どこか遠くのほうで彼女の名前を聞いていた。池田とあかりに挟まれている今、池田に重心をかけるのは厭なので、無意識のうちに、体重を琴子改め北山あかりのほうにかける郷原であった。もたれかかったあかりの髪から、いい匂いがして、殺気立った郷原の神経を撫でた。
(なぜだろう……。俺は、ずっとずっと昔から、この女を知っている気がする――)
しかもそれは、郷原の心の奥深くにしまわれている、もはや存在すら忘れていた、危険な破壊のパンドラボックスを開けることができる、失くしていた鍵のような懐かしさ――。蓋を開けてはならない、決して――。その鍵からは、早く離れなければ……。
そう思う郷原だが、今はとにかく疲れていた。少しだけ人の体温に触れて眠りたかった。とても長い夜がやっと明けて、周囲はもう新しい1日に輝く光を浴びて、エネルギッシュに動き始めていた。
あかりは、郷原を支えるようにしながら、リアウィンドウからずっと自分がママを務めていたスナック、ミラージュのドアを見た。
谷中が、自分の元を去らぬよう、飯田に関する余計なことを外部に漏らされぬよう、あかりを閉じ込めておくための店……。谷中に連れられてやって来る酔客たちの前で、少しでも谷中に懐いていないそぶりをしたり、反抗的な態度を取ると、家に帰ったあとひどい目に合わされるのだ。
鍵はかけていかなかった。きっと、谷中が酔いつぶれたと思って迎えに来た部下が、谷中を見つけて病院へと運んでくれるはずだ。
それが、あかりが谷中にしてやれる、精一杯の気持ち……。北山あかりにとって、いきなり目の前に現れた郷原悟は、まさに解放軍だったのである。
朝日に照らされて霜が輝くアスファルトを、型落ちのマツダ・デミオは滑り出していった。
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