第二十二話 CHAPTER7、一夜(3)
あかり――。
深い霧の中で、懐かしい男の声がした。あかりは声のするほうへと夢中で走っていった。
(どこ……? どこにいるの? お父ちゃんっ! あたしはここにいるよっ! みんなみんな、誰も居なくなっちゃったよっ! あたし、独りぼっちだよ、お父ちゃん――!!)
あかりが眼を覚ましたのは、電話のコール音だった。
なぜか濡れていた瞼を、ぼんやり開けてあかりが見たのは、郷原が寝ていたはずのベッドにいる自分だった。
「……………」
そういえば、かすかな記憶――。あれから、郷原の手を握ってやって、しばらくの後、あかりもつられてうつらうつらしていたら、突然、強い力で手を引かれて、結局あかりも同じベッドに入った気がした。郷原の呼吸や、肌の匂いがまだ、あかりの中に残っていた。
(そうか、それでお父ちゃんの夢――。郷原さんの匂い、お父ちゃんの匂いに、そっくりだったから――)
けたたましく鳴り響く電話の音は、あかりがそんなことを思い出す間も鳴り止まない。仕方がなく、寝ぼけたまま手を伸ばして、受話器を耳に当てるあかりだった。
聞こえてきたのは、中年男の声だった。
「北山あかりさんかい? 私、田代といいます。先日はどうも」
「………?」
田代、という名前に、あかりはピンと来なくて、しばらく無言だったが、田代は構わずに話を続けた。
「郷ちゃん……、じゃなかった、えーと。郷原先生から伝言を預かっててさ」
いいながら田代は、メモ書きでも見ているのか、少しの間を置いた。あかりはその瞬間、田代という男のことを思い出していた。そういえば、郷原たちと一緒にいた、郷原の手下らしい中年男が、そんな名前だった気がした。
「えーと。まず一つ目の伝言。 “ホテルの支払いはもう済んでいるから安心しろ”。 それから……、“ベッドのサイドボードの上に置いてあるものは、お前にくれてやるから持っていけ” だってさ。以上」
「え……? サイドボード……?」
あかりは、ベッドのシーツから顔を出すと、サイドボードを見た。
「う、うわっ! な、なにこれっ!!」
あかりが見たのは、無造作に置かれた100万円の束だった。
「郷ちゃんからの置き土産、わかったかい? それが1日看病してくれた日当だって。頑張れよって言ってたよ。それじゃあ」
田代はそう言って、手短に電話を切ろうとしたが、その瞬間、慌てたようなあかりの声が響いた。
「あ、ま、待って! 田代さん!」
「あー?」
「あ、あの……。ご、郷原さんは、いまどこに……?」
「それは言えないんだ。じゃあ」
「ま、待って! 待ってっ! お願いっ! 待って!」
「……………」
田代は無言だった。どうしたらいいのか困ってしまっている空気が伝わってきて、あかりは今そこに、郷原がいないことを直感していた。
「あ、あのっ……。田代さん……。郷原さんに伝えてください……。あ、あたし、きっとこのおカネ、返しにいきますからと……」
しばらくの間の後、田代が言った。
「いいや。その必要はないよ。郷ちゃんがあんたにって、置いていったお金だ。遠慮なく受けとっておきなよ。じゃあ」
また電話を切ろうとする田代に、あかりは猶も食い下がった。
「ま、待ってください! 田代さん! あたし、おカネ貰うようなことしてないわ! 貰う覚えはないの! 返しにいきますって伝えて! そ、そりゃあ、いっぺんには返せないと思うけど……。でも、郷原さんに伝えて下さい……。落ち着いたら、一緒に飲みに行こうねって……。あたし、たくさん働いて、ご馳走するからってどうか、伝えて……」
あかりは声が震えて、涙交じりになっていた。田代はしばらく間を置いてから、優しい声を出した。
「……わかったよ。確かにその言葉、郷ちゃんに伝えておく」
「ご、ごめんなさい……。田代さんにひとつだけ……。どこにおカネ、返しに行ったらいいですか? 郷原さんのお勤め先はどこ……?」
「……………」
田代はしばらく考えてから、冷たい返答をした。
「悪いけど、それは教えられないよ」
「じゃあ、おカネ、どこに返しにいったらいいの……?」
「……………」
田代は黙っていた。あかりは郷原とのか細い糸が切れてしまうのが怖くて、泣きそうな声で田代に迫った。
「あたし、このおカネは借りたんだもん。だから、ちゃんと返しに行きたいの……。返す場所がわからなくちゃ、返しに行けないわ。お願い田代さん、教えて……」
田代は、ハァッと、深いため息をひとつ吐いてから、仕方がなさそうに言った。
「……わかったよ。郷ちゃんはもう、あんたと会う気はないと言ってるが、あんたの気持ちもあるだろうからな。何かあったら新宿百人町の、平安第一ビルの中にある、平安ファイナンスという会社へ行きなよ。おカネはそこに返してくれたらいい」
「そ、そこに行けば、あたしが来たこと、郷原さんにちゃんと伝わるの?」
「……………」
田代は、またしても無言だった。しかしあかりには、無言の肯定のように聞こえる間の取り方だった。
「とにかく郷ちゃん、じゃなかった、郷原先生からの伝言、確かに伝えたよ。じゃあ」
そういって、田代の電話は切れた。
「あ………」
耳に当てた受話器は静まりかえった。あかりは呆然として、ベッドの回りを見回した。メモ書きもなにもないまま置かれていた百万円だけが、あかりには悲しかった。
**
遠くから聞こえる静かな旋律。さざなみのように、寄せては返す人いきれ。頭の上で揺れている、シャンデリアの光。
ホテルは、好きだ。ここでは、誰もが誰にも関心を持たない。みんな通り過ぎてゆく存在――。誰もがやがては、それぞれの居場所へ帰るための場所――。
ホテルに北山あかりを残し、郷原悟は今、長い脚を組んでコートを脱ぎ、スーツ姿で、赤坂にあるとあるホテルの、ティーラウンジのソファにもたれていた。
不意に、ポケットの携帯電話が電子音を発した。郷原は携帯電話を掴み出すと、ディスプレイを見た。田代からのメールだった。頼まれた通りの伝言を、北山あかりに告げたとあった。
「……………」
これでいい、これで――。あれは、ただの夢だ――。
(郷原さん、また、逢えるよね――)
ベッドにそっとあかりを入れてやったとき、耳元で囁かれた言葉が、まだ鼓膜に鮮明に焼き付いていた。
ふと、たくさんの花束を抱えた、幸せそうなカップルと、しきりに周囲に挨拶をする、初老の男女4人が見えた。おそらく、結婚披露宴をこのホテルで挙げた新郎新婦と、その親たちなのだろう。それぞれに晴れがましい礼装をして、幸せに赤潮した頬と、希望に燃える目をしていた。
郷原は、連中が視界に入らないよう目を伏せた。ああいう連中を見ると、頼むから近寄るなと思ってしまう。強烈な光は、郷原の闇を色濃くさせる。だから晴れがましい人間は嫌いだった。
[妬ましいのか?]
心の中で、何者かの声がした。緊張感が高まると、いつも聞こえてくる、もう一人の自分の声――。
(まさか――。家庭など、獄に繋がれるのと同じことだ。俺にとってはな。ただ、姉ちゃんには、あんな晴れがましいことが一つくらいあっても良かったのになと、そう思う……。母親にさえ見捨てられて、学校での楽しい思い出も、就職したことも、結婚したこともないまま、あんな事件でかたわになって、何もできないまま死ぬしかない姉ちゃんの人生は、いったい何だった――? 何のために深雪は、この世に生まれてきた――?)
[探してやればいいじゃないか。母親をお前が――。姉のために探してやったらどうだ。お前たち姉弟を捨てた、あの惨めで、貧乏で、学もない、男狂いの母親を……。男に媚びを売り、薄汚い水商売で喰うしかできない、北山あかりにそっくりな母親を――]
(うるさい――)
[恐いんだろ。自分が母親に会うのが、恐いんだろ郷原……。だから、自分を捨てたあのときの母親に、境遇のそっくりな北山あかりと、一緒にいるのが恐かったんだ、そうなんだろ、ククク!!]
(うるさい、うるさい、うるさい!!! 黙れ――――!!!)
郷原が、唇を強く噛んで、自分の頭の中にこだまする声を振り払った瞬間、不意に、人影が背後で揺らめいた。
「待たせたな、郷原」
その声に、物思いに沈んでいた郷原の意識が呼び戻され、体が、一気に緊張を帯びた。
「あ……。お久しぶりです、寺本組長……。お世話になっています」
郷原はすぐに立ち上がると、目の前の初老の男に、深々と頭を下げた。
「活躍のほどは、川嶋からも聞いている。いずれお前にも、若い衆を任せねぇとならねぇな、郷原」
そういって、どっかりとソファに座り込む初老の男。初老とはいっても、まだ中年で通りそうなほど、肌の色艶の良い男であった。背筋もまっすぐに伸びて、品の良いハイネックのセーターを身につけ、物腰は温厚そうな紳士、といった風体だ。
しかし、この男の正体――。それは、広域指定暴力団、関東報勝会傘下の一大組織、寺本組組長、寺本厳である。
寺本は、他に二人の男を伴っていた。一人は、40代半ばの、頬の落ち窪んだ、リーゼント頭の目つきのギラついた男。デスティニー店長の城乃内貴章だ。
もう一人は、かなりいい年の老人だった。髪はつるつるに禿げ上がり、脂の光沢が浮かんでいた。額や頬には深い皺と、老人性紫斑がまばらに刻まれ、緩い頬が無様に垂れ下がっているが、まだまだ女でも欲しがりそうなバイタリティを感じさせる男であった。しかしその目は、深い憂いと絶望を湛えて、落ち窪んでいた。
「寺本組長――、まさか、お一人でここへ?」
「いいや、私がお連れした。心配ない」
40を少し過ぎたくらいの、骸骨のような風体の城乃内が、郷原を見下したような声で言った。
「そうですか。城乃内さんにお手間を取らせて、申し訳ありませんでした。本来ならばこの件に関しては、私か川嶋が、組長を迎えに出なければならないものを……」
「まぁ、今日は堅いことを言うな。志垣会長のたっての願いを、俺も見届けないわけには行かないだろう。みんな私人として、プライベートでここへ来ている。お前も気を使わなくていい。志垣会長の願いを、じっくり聞いてやってくれ」
「は、はぁ……」
郷原は、志垣という老人に目をやった。志垣老人は懐から太い葉巻を取り出した。立ち上がって火をつけようとする郷原を、城乃内が静止した。位置関係上、老人と角を挟んでいる城乃内のほうが手が近いのだ。それを見て郷原は、口の中で小さく舌打ちすると、差し出しかけていたライターを納めて、本題を切り出した。
「志垣会長たっての願い、というのは、やはり、例の賭博のことですね」
志垣会長と呼ばれる老人――。本名、志垣智成。齢は当年とって80歳だ。葉巻の重厚な煙を、年寄りにしては艶のある唇から吐き出して、ようやく日本政財界の闇のフィクサーと言われる男は、口を開いた。
「そうなんです、郷原さん。あなたは神を現せる、天才占い師だとか……。城乃内さんのところの地下クラブに遊びに行けば、あなたの奇跡の技を見られると、そう、寺本さんから聞きましてね。ぜひ、私を助けていただきたいのです……」
「会長を、助ける? この私が? 私はただのぺてん師ですよ? 占星術などという、ふざけたまやかしで、人を欺きつづける詐欺師です。まさか、その詐欺師が、会長をお助けするなど……」
「フフ……。いいですな。自らをペテン師だと言い切る……。そういうご仁は嫌いではない。ますます、あなたに勝負を申し込みたくなってきた……」
志垣老人は、また煙を吐き出して、自分の心情を吐露していった。
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