第二十話 CHAPTER7、一夜(1)

 郷原悟と、北山あかりが、なんとなく同じベッドで眠っていた頃、都内某所にあるボクシングジムでは、一人の男がスパーリングの練習をしていた。

 男の年齢は、かなり若そうで、青年といった感じであるが、顔色は冴えず、目の色は苦悩と焦燥で狂気に染まり、頬はやせこけて、落ち窪んでいた。今時の、恋だの旅行だのを謳歌おうかする若者とは、かなり違う感じだ。年齢は二十歳前後といったところだろうか。

 彼は今、この薄汚いボクシングジムで、金髪に髭面のガラの悪そうな男とリングへ上がり、フットワークを刻んでいた。しかし、ボクシングのスパーリングにしては妙である。

 青年の拳は、テーピングで巻かれてあった。ヘッドギアにタンクトップとトランクス、リング用シューズなのはボクシングと同じなのだが、妙なことに、その青年が手にしているのは、グローブではなくて、長さ30㎝ほどの棒であった。

「はい、ワンツー! そこで踏み込め! 足つかえっ! 足っ!」

 コーチらしき男が、青年に向かってミットを向ける。そのミットめがけて、棒で突きかかる青年だった。まるでボクシングと言うよりは、フェンシングのような動きである。コーチが、わき腹を狙えと暗に誘うように、自分の腹の前にミットを動かすと、青年は、大きくそこへ踏み込んだ。間合いが見事に一致して、ミットのど真ん中に突きがめり込んだ。

 その瞬間である。リング上で練習している二人に、ジムの入り口から低い声が飛んできた。

「よぉ……。精が出てるじゃねぇか……」

 その声にコーチは、振り返った。

城乃内じょうのうちさん!」

「邪魔するぜ。どうだ? 原口はらぐちの仕上がり具合は……」

 突然現れた城乃内という男は、襟のとんがったガラシャツを着て、胸に金のチェーンをきらめかし、チンピラそのものの風体であった。目つきも、とても堅気には見えない光を帯びていた。

 コーチは汗を拭いながら、人懐こい笑顔を浮かべて、リングのロープをくぐり、城乃内と今呼んだ男の元へと出てきた。

「へへ……。それがこいつ、思ったより飲み込みがいいんスよ。カンは悪くないです。ただ、残念なことに、あの通りの軟弱な体でしょ? もうちょっと肉体改造からちゃんとやれば、かなりいい勝負になると思うんだけど、ちょっと時間がね……」

「まぁ、そこをなんとか仕上げるのがお前の仕事だ。本番には間に合わせてくれ」

「はぁ……。ところで、橋爪はしづめのほうは?」

 金髪髭の人懐こそうなコーチが、 “橋爪” という名前を出すと、リングの上でロープに捕まり、膝をほぐしていた青年の目つきが、にわかに鋭さを増した。

「まぁ、向こうはなにせ、元・東洋太平洋チャンピオンだ。多少の矜持きょうじはあるだろうよ。しかし、長年のムショ暮らしで、肉体的にはかなりなまっている。今、スパーリングを見に行ってきたが、やはり往年のようなキレは、失せていたな。フフフ……。原口とそれなりに、いい試合になるんじゃないのか?」

「でも、今度の原口対橋爪の試合は、面白い趣向がさらに盛り込まれるって話ですけど、いったい何なんです?」

 金髪髭コーチは、滲んでくる汗を拭いながら城乃内に言った。

「おお、それよ。それがな、選手だけじゃなく、本番までにセコンドのコーチもしてやって欲しいんだ」

「へ? セコンド……? セコンドのコーチ、ですか……。でも、原口の試合は、私がセコンドをやるって話だったでしょ?」

 二人の会話が、自分とは関係無いところで行われているのが、カンに触ったのか、原口というらしい、痩せて落ち窪んだ眼をした青年は、リングから降りてくると、城乃内を睨みつけた。

「まぁ、今回の趣向ってぇのがな、セコンド同士の勝負でもあるわけよ。……おい、池田さんって言ったっけ? ここへ来なよ」

 顎をしゃくって、城乃内は、ジムの入り口からこちらを窺っていた中年の口ひげ男を、コーチと原口の前へ来させた。

 池田は、疑心暗鬼丸出しのギラついた目で、原口を見た。原口もまた、追い詰められた狂犬のように、暗くて鬱々とした眼をして、池田を睨んでいた。

(なんとも、よく似たタイプ同士だな――。ククク……。これは面白くなりそうだ……)

 二人の瞳を見比べて、口元を歪める城乃内であった。それから池田の肩を叩いて、コーチと原口とに紹介した。

「この人、今度、うちの賭場で大勝負をすることになった池田さん。この池田さんが今日、くじ引きで、原口とコンビを組むことが決まってな。今、誓約書にサインをもらってきたところさ。この池田さんに、お前のセコンドをやってもらうからな。いいな、原口」

「…………………」

 原口は、ギリッと音が聞こえるほど、歯噛はがみして、憎らしそうに池田と城乃内を睨んだ。

「どうせ僕に、断ることは出来ないんだろっ!」

「まぁ、そういうこった……。しかしお前、池田さんでラッキーだぞ?この人は冷静だ。もう一人の橋爪側のセコンドなんか、産婦人科医らしいがまるで甘ちゃん丸出しのお坊ちゃん。俺は思ったね。原口とあの医者がコンビになるようじゃあ、こりゃあギャンブルの神様も酷なことをするってな。しかし、神はお前を見放さなかった……。せいぜい、残りあと1日、池田さんとじっくり息を合わせて、作戦を立てろ。人生をすべてやり直したければな。ククク……」

「ふっ、ふざけやがってっ……!」

 原口は、城乃内にありったけの憎しみを向けていた。

「人の人生をおもちゃにしやがってっ!! お前らなんかっ! お前らなんかっ……!!」

「……呪うなら、テメェの親と育ちを呪えや、原口……。明日の希望もなにもないお前に、俺たちはまたとない再起のチャンスを与えてやっているんだぞ……? 要は勝てばいいんだ、勝てばな……。この世は、どんな卑怯な手段を使っても、勝てば官軍さ。こういう無茶でもしなけりゃあ、お前みてぇな生ゴミ、世間の誰も相手にしねぇんだよ……。それをわきまえろっ」

 城乃内は、生意気な口を聞いてきた原口の胸倉を掴み、唾を吐きかけると、「んじゃあ、後はヨロシクな……。池田さんを置いていくから、さっそく指導でもしてやってくれ」

 そう言いながら後姿で、セカンドバッグを振り、ジムを出て行った。支払いはいつもの通りという、金髪髭コーチへの合図である。

「わかりました!」

 嬉しそうに満面の笑みで、城乃内を見送るコーチであった。池田史郎はその様子を、苦虫をかみ殺したようにいまいましそうな顔で、睨みつけていた。

 

 

**

 その数時間後の、午前0時過ぎ――。郷原悟は、新橋ダイヤモンドパレスホテル、27階スィートルームの、南側に大きく張り出しているガラス張りの壁にもたれて、携帯電話で通話をしていた。

 電話の相手――、六本木でクラブ “デスティニー” を経営する男、郷原と同じ寺本組の川嶋一派、城乃内貴章であった。

「そんなわけでな、山本と池田の二人を、さっそくトレーナーのところに置いてきた。占い賭博本番は、明後日だからな。お前も用意しておけや」

「そうですか……。山本……、山本の様子は……?」

「山本ぉ……? ああ、あの医者か。勝負の内容を聞いたとたん、青ざめて、ビビってたぜ? なんせ、生き死にの目に会うのは自分だとばっかり思ってたようだからな……。フフフ……。急にカラ元気も無くしちまって、面白かったぜ?」

 携帯電話を耳に当てながら郷原は、視線を下へと落とした。山本のうろたえる様子が、目に浮かぶような気がした。

(バカが……。甘えを捨てるという言葉を、はき違えやがって……。甘えを捨てるとは、他人の人生など知ったことかと割り切ることだ。そこに気づけない限り、お前は……)

 沈黙した郷原を見透かすように、城乃内が狡猾こうかつな声を出した。

「まさかお前、あの山本をなんとか、助けてやろうなんて考えてるんじゃねぇだろうな……。あいつは、俺たちにとって利用価値がある。診断書だの手術だのやらせて、一生飼うのが得だと、組長も考えておいでだ。山本は負けていいんだよ……。妙な仏心など出すな」

 郷原の心のよどみに感づいたように、城乃内が上の方針をちらつかせてきた。その言葉に、郷原は思わず吐き捨てた。

(……下衆げすがっ……)

「あ~? なんか言ったか? 郷原ぁ………」

「いえ、別になにも。俺、何か言いましたか今」

「……ケッ、まぁいい……。せいぜい、当ててみせろや天才占い師……。この勝負の成り行きと、結果をな……。お得意の占星術でよ。ククク……」

 言われた言葉に、侮蔑ぶべつが含まれているのを、郷原は感じていた。

(いいさ、占い師だとバカにされるのには、慣れている。今に始まったことじゃない……)

「ところで、今日は何時に、どこへ……?」

「ああ。午後4時に、赤坂シンフォニーホテルのティーラウンジだ。そこで志垣会長と、誓約書の調印式を行う……。会長直々のお越しだ。くれぐれも失礼のないようにな」

「わかりました。では、今日の午後4時に……。よろしくお願いします」

 通話を切る。まだ、腕がじくじくと痛んで、上げ下げが難しい。

(とうとう、占い賭博の本番――。今日は誓約書に、判を押す日……。今度は何を賭けさせられるのかな……。腕……? 足……? 耳……? それとも、自由――??)

 一瞬、心臓がこわばった。でも、恐れることはない――。

 実は今、予言にとっていい状態であるのを、郷原はわかっていた。こんな怪我をして、ぼろぼろだけれど、死に近づけば近づくほど、郷原を愛する予言の女神は、郷原に近くなるのだ。

 アルコールへの渇望感が、不意に襲ってきた。賭博と占いでとち狂った郷原の神経が、自分を追い詰めようと脅迫感を持ち始める。痛む腕と、未だに浮かされる熱のせいでふらつきながら、郷原がバーカウンターのほうへ行こうとしたとき、ベッドルームから北山あかりが顔を出していた。

「……ど、どうしたの? 郷原さん……。眠れないの? あたし、やっぱり一人で眠ろうか?」

「いや、いい……。お前は寝てろ」

 体を引きずり、洋酒棚のところへ行って、酒瓶を取ろうとしている郷原に、あかりは眼を丸くした。

「ま、まさか! ダメだよお酒なんか!」

 すぐに、駆け寄った。郷原の周囲にまとわりつくように、止めさせようとするのだが、あかりは基本的にあまり強制的なことをするのは好きじゃないので、ダメだよといいながら、困ったように側に居て、おろおろするだけだった。

 そんなあかりに構うことなく、ジャック・ダニエルの瓶の口を開けると、グラスに移しもしないでそのまま、郷原は直接ラッパ飲みを始めた。さすがにあかりは「ダメだったら!!」と強く言って、瓶を取り上げた。

「んだよ、俺の勝手だろ。泊まらせてもらってる身分のくせに、俺に指図するな!」

 郷原は、強い口調で苛立ったように言い放つと、また動く右手を伸ばして、ジャック・ダニエルの瓶を取り戻そうとした。引っ張り合いになって郷原が勝った。片腕なのにすごい力――。

 そのとき、あかりが垣間見た郷原の眼――。それは、自信の無い、自分を嫌いな人間の眼――。たくさんの酔客たちの中でも、特に悲しい、帰るところのない男の、眼の光――。

 あの男たちの眼と、郷原の今の眼はそっくりだ。あかりの手から酒瓶をもぎ取った郷原は、また浴びるように口をつけて、胸にびしゃびしゃとこぼしながら、慌てたように喉へ流し込んだ。

 それから、プハーッ! と、大きく息を吐いた。

「見るなよ……。こんな姿見るなっ! 向こう行けっ!!」

 郷原は言い放つと、なおもぐびぐびと、ジャック・ダニエルをストレートのまま煽り続けた。あかりは、泣きそうに悲しい眼をして、憐れな郷原をしばらく見つめていた。郷原を抱きしめようかと思ったけれど、それだと、余計に深刻になって、彼を傷つけるんじゃないかと思ったから、やめることにして、2、3秒考え、すぐに思いついて明るい声を出した。

「わ、わかったっ! いいこと考えたっ! あたしも、一緒に飲んであげるっ!」

 はい、はーい! と、授業中に先生へ手を上げる小学生みたいに、あかりは片手を上げて、おどけてみせた。

「何だよそれ……」

「暗いよそんなの……。アル中ならアル中でさぁ、もうちょっと、ギャグっぽくしてくれなきゃ……。そんなマジな眼でラッパ飲みとかされると、迫真すぎてツッコめないじゃん。だからさ、あたしも一緒に飲んであげる。ね? いいでしょ?」

 あかりはそう言うと、さっき買ってきて残っていた氷と、ホテルの有料ミネラルウォーターと、有料の小袋入りナッツを持ってきて、グラスを二つ用意した。手際よく水割りを作ってやった。

 

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