第十四話 CHAPTER5、突入(1)
しんと静まり返った、夜明け間際の空気――。
空調はしてあるようでも、郷原の手の中に収まったベレッタ・M91の銃把は、芯から冷たく凍り付いていた。
唸り声がする――。さっき、どてっ腹に一発、お見舞いしてやった坊主が、失血のショックで呼吸がおかしくなり、気色の悪いひきがえるみたいな、死の淵での生命活動をしている音だった。
(うるせぇな――)
郷原は思った。
[面倒だ、殺っちまえよ郷原――]
頭の中で、別の誰かの声がする。郷原は、その声に反問した。
(いいや――。唸り声は、やつらの気を引かせるのにちょうどいい……。もう少し唸らせておいたほうが好都合だ――)
その声は、いつも郷原が、何かに緊張すると聞こえてくる。怯え、恐れ、悲しみ、荒れ果てている彼自身を、郷原に気づかせようとする。
(黙っていろ、今は――。奴らを完全に制圧するまでは――)
銃把を握る手が、乾いた氷に張り付いてしまったようにこわばり、離れない。連中がいつ来るのかわからない――。
郷原は銃把を握る手を、引き剥がすようにほぐして獲物をひとまず下ろすと、カウンターの上に置きっぱなしになっていた松木のマルボロを1本取り火をつけた。吸い込む煙に、体中の血液が引き締まる。ニコチンの薬理作用で緊張感をごまかすのだ。
シミュレーション……。連中の人数はたぶん、二人……。こいつらの言う社長と、もう一人は恐らく、池田史郎――。占いの神が、星々の言うことが本当ならば、それは間違いなく池田史郎だ――。
[確証はあるのか――? 郷原……]
また、頭の中の声である。それに反問する郷原だった。
(確証――?? バカを言うな――。占星術に、確証もなにもあったもんじゃない……。ただのでたらめな星の並びを、俺が勝手にそう読んだだけだ)
[ならばなぜ、池田が来ると断言できる――? 断言したとたんに占いは、占いではなくなるのではないのか? 郷原……。言い切る――。それは単に信じるということ――。つまり――]
(そうさ、賭けだ。占い自体が危険な賭け……。賭けに勝つか負けるかだけのこと……。占い師など、妙な学理を振りかざし、偉そうなことをフカしたところで、どいつもこいつも、ただの薄汚いバクチ打ちに過ぎない)
[では、お前はなぜ、自分の気持ちにこうも命を賭ける……? まさか、このまま未来永劫、自分は勝ち続けるとでも――?]
(クク……。それはな……。愛されているからだ。天上の悪徳の女神にこの俺が、惚れられているから――。女神は俺と、交わりたがる……。嫉妬深くて淫乱な、醜悪な運命の女神……。俺に抱かれるためならば、どんな未来も教えてくれる……。俺はその女神ですら、最後には捨ててやるのだ――)
頭の中の声は、沈黙していた。イメージを再び、繋げてゆく……。
ドアが開けられる。その隣に立っている自分。最初に入ってくるのは、連中の言う社長……。坊主頭の唸り声に気づく。しかし真っ暗な店内。眼は慣れていない。手探りで照明のスイッチを探す。その後ろにいる池田――。一緒に店内に入ってくるはず――。
(そうしたら俺は、すぐに池田の襟首を掴み、ベレッタを押し当てる。そしてそのままドアの前に立って、連中の退路を断つ……。あとは思うままだ。ことによっては2、3発鉛弾を喰わせてやる……)
ホタルのように、タバコの穂先が点滅していた。フィルターぎりぎりまで吸い込んで、灰皿に押し付けた。視界がだいぶ、暗闇に慣れてきた。もう一度、ベレッタ・M91を握り直した。
遠くから、コトリ、コトリと響いてくる靴音――。
(………!! 来た――!!)
すぐにドアの横、蝶番で開かない左側に立つ。かすかに話し声。ベレッタを、右耳の辺りに掲げる。眼を閉じ2回、深く息を吸った。
カラン……、と、ドアにつけられているベルが鳴った。男の野太い声――。
「なんだ……? 電気もつけねぇで……。おい松木!」
50代始め頃の、頭の薄いずんぐりとした男が、キョロキョロしながら1歩、2歩と店内へ踏み込んだ。
郷原は、息を殺していた。その後ろにもう一人の人影――。ずいぶん小柄だ。これなら、押さえ込むのはわけない――。郷原は闇の中、手探りで明りを探す男の真後ろにいた人間を、いきなり、左腕を伸ばして押さえ込み、すかさずベレッタを押し当てた。
「きゃああああ!!!」
甲高い声に眼を剥く――。女――!! なんで――!!
「てっ!! てめぇ!!」
「イヤぁぁ!!」
「騒ぐな!! ブッ殺すぞ!!」
ベレッタの銃口を、女の頬に押し当てながら、郷原は怒鳴った。
そのすぐ後ろ――。
「あ、あわわ!! あう……!!」
首を向けた郷原。女のすぐ後ろに、もう一人、中年の男が立っていた。
(しまった――!! 池田はこいつだ――!!)
「う、うわぁ!!」
衝動的に、ドアの向こうに走り去ろうとする池田と思しき男の足元に、郷原は、女を捕まえたままの姿勢で、9mm弾を打ち込んだ。
アスファルトに跳弾する衝撃で、火花がパッと散り、耳を劈くような爆発音がした。
「!!!!!」
その隙に、不意に周囲が明るくなり、郷原に突進する男――。郷原は、突き飛ばされた拍子に女を離すと、その場に倒れこんだ。その上に、馬乗りになる男である。ベレッタを握る郷原の右手首を掴み、押さえ込んでいた。
「てめぇ……。よくも……、俺の子分をっ……!!」
電気の灯った店内は、丸坊主のおびただしい血液で赤く染まっていた。女がそれを見て、また悲鳴を上げた。
**
「な、なぁ!! 今、銃声が聞こえなかったか?!」
「え、ええ!! き、聞こえました!!確かに……!!」
飯田継男のかつての愛人、琴子という女が経営するスナックが、どうやらこの界隈であると、2ちゃんの鬼女版で見つけた田代と浜崎、山本は、コインパーキングに車を止め、ちょうど辺りを探そうと思っていたところであった。思わず手にした懐中電灯で、当たりを照らす田代であった。
バタバタと足音がして、そちらへ灯りを向けると、曲がり角の向こうから、血相を変えた男が走りこんできた。男は田代たちを見るなり安堵の声色を浮かべると、元来た方角へ指を指した。
「あ、ああ……!! た、助けてください!! 拳銃を持った男が、あ、あそこのスナックに――!!」
そう言って、3人の元に飛び込んできた男は、今度はさらに眼をひん剥いて、口をパクパクさせると、再び踵を返して、脱兎のごとく逃げようとした。
「な、なんだ?? こいつ――」
「池田理事!!」
山本が、叫んだ。
「浜崎さん!! 捕まえて!! 池田だ!! 池田理事長だよ――!!」
「ええ~?!」
とりあえず、走る浜崎。さすが浜崎は、まだ20代だ。池田がパニックでよろけた瞬間に追いついて、池田をあっさりと組伏せてしまった。
「く、くそっ!!」
浜崎の股の下で、池田史郎は身悶えたが、もう観念するしかなかった。田代と山本が、遅れて小走りになりながら、池田の元へやってきた。その前にしゃがみ込む田代である。
「あんたが、池田史郎さん? 今言ってたスナックはどこだ。琴子という女の店だろ? 案内してくれ」
「う、うぅ……。わ、わかったよ……」
池田は、組伏せられた拍子に、頬をすりむいていた。そこを手で擦ろうとしたのを、浜崎が後ろ手にねじり、自分が着ていたニットのガウンで、きつく縛り上げた。
「や、山本くん……。なぜ、山本くんがこんな連中と……?? あの銃を持った男と、知り合いなのか?」
「銃を持った男……? 発砲したのは、郷原……?」
パン、パンと、立て続けに2発発砲音がした。まさか――!!
「急ごう!! 郷ちゃんが危ない!!」
3人は頷きあうと、池田を引きずるようにして、先を急いだ。ビルの角を曲がり、車道を挟んだ向かいにある白いマンションの1Fにあるスナック、“ミラージュ”へと向かう。明け方近いせいか、野次馬はほとんどいなかったが、それでも上のマンションに住む住人が、銃声に驚いて2、3人、寝巻き姿で階下を覗き込んでいた。
「さて、どうするかな……」
つぶやく田代であった。
「中にいるのは、何人なんだ?」
浜崎が、池田の腕をねじ上げる。
「あ、あたた……!! わ、我々は、私も含めてご、五人です!」
「じゃあ、中には男が4人……?」
「いいえ、ひ、一人は女……」
「じゃあ、3対1ってことか。いくら拳銃を持っていても、多勢に無勢だ。やはり撃たれたのは、郷ちゃんのほうかも知れない……」
「とにかくあんた、どうにか扉を開けさせろよ」
池田をねじる手に、更に力を込める浜崎であった。
「わ、わかりましたっ! だ、だから離して! イタタタ……!!」
「ケッ」
腕に込める力を、ほんの少し緩めてやる浜崎。それから、体で押すようにして、池田をドアの前に立たせた。
「た、谷中さん……!! わ、私だ! 応援を連れてきた! あ、開けてくれ!!」
池田の声は木製のドアにぶつかって、明け方の澄明な空気の中に反響していった。その声が妙に大きかったので、田代と山本は、思わず周囲を振り返ってしまった。
反応はない。恐らく、扉の向こうの連中の精神は、極限状態のはずだ。そんなとき、小手先の智恵など、余計に神経を逆撫でするだけだろう。必死に訴える以外にはないと田代は思った。
「ご、郷ちゃん……! 俺だよ、田代だよ……!! 助けに来た! 中にいる人も聞いてくれ! お、俺たちは丸腰だ。池田さんも一緒だ。ここにはお医者さんもいる! 頼む、ドアを開けてくれ! う、撃たれた人がいるなら、早く手当てをしないとっ……!」
田代の声もまた、夜明けの街へとこだましていった。しんと静まりかえった夜明けのスナック。新聞配達の若者が、いぶかしげにミラージュの隣の階段を、新聞を抱えて上がってゆく。
何秒、何十秒、経っただろうか。その間、ドアの前にいた4人は、それぞれが、まばたきするのも忘れるほどに固唾を飲んで、視線を1点に集中させていた。
突然、ドアがギシリとしなり、恐る恐る、細い空間が開いた。その向こうの暗闇から、白くて華奢な指先が、ニュッと覗く。美しい、桃色のネイルアートが施された、形の良い指だった。指は、少し間を置くと、それから一気にドアを開け放った。
中を覗いた4人は、唖然――。凄惨な血溜まり――。
ドアを開けた女は、恐怖に顔を引きつらせ、唇を歪めていた。田代たちは、女を突き飛ばすようにして、中へと踏み込んだ。
左上腕から血を流した郷原が、狂った野獣のように肩を上下させて、右手で銃把を握り、足元に倒れている男の鼻先に、銃口を突きつけていた。倒れている男は、郷原の足元で震え、懇願の媚びをその眼の色に浮かべていた。
「………!!」
山本はすぐに、店内奥で気を失っている坊主頭に気がついて、そこへ駆け寄った。坊主はさるぐつわを噛まされ、腕をタオルでトイレのドアに括られ、腹からどくどくと黒い血を流し、意識が無かった。
「た、大変だ!! す、すぐに救急車を!!」
山本は叫んで、坊主を縛る手を解き、床の上に寝かせた。
浜崎はすぐに池田を、自分のニットのガウンで縛ったまま、丸坊主が倒れているトイレのドアの前に連れていき、縛りなおした。
「あんた、ごめん……。ガムテープ、ある?」
茫然自失の女に向かって、田代は尋ねた。
「え………?」
「あ、いや……。ガムテープがなければ、紐とかでもいいんだけど……。大丈夫、俺たちはこれ以上、あんたたちに危害を加えたりしない……。ただちょっと、この谷中信一郎さんと、池田史郎さんに、聞きたいことがあるだけなんだ」
「あ………」
女は大人しく、カウンターの流し台の下から、ガムテープを取り出すと、田代に手渡した。その横の冷蔵庫にもう一人、ガラの悪い男が縛られていた。
男は、自力でさるぐつわを解くと、手を縛られたまま怒鳴った。
「あ、あいつが撃ったんだっ……!! いきなりっ……!!」
そう言って、郷原に顎をしゃくった。よほど恐ろしかったようだ。
田代はガムテープを受け取ると、谷中の腹の上に馬乗りになり、その手首をガムテープでぐるぐる巻きにして、さらに肩と腕を、胸を取り巻くようにして幾重にもガムテープで巻き、床の上に転がした。それから、石のように硬直している郷原の肩を叩くと、その手に握られているベレッタ・M91を、指を1本1本ほぐすようにして剥がし、どうにか取り上げた。
「それより、早く救急車を!! この人、意識レベルが下がっている! 早く病院へ連れていって輸血しないと、死んでしまうぞ!!」
「だ、だめだっ……!! 救急車などっ……!! せ、選挙が近いんだっ……!! 警察沙汰になりたくない……!!」
谷中が、うめくように言う。その言葉に、衝動的な怒りで頬を染める山本だった。
「あ、あんたの部下じゃないのか! あんたの命令を守って、こんなことになったんだろう?! それを見殺しにするだなんて!」
それまで、石のように動かなかった郷原が、再び野獣のように息づいて、転がっている谷中の顔面を蹴った。
「ご、郷ちゃんっ!!」
郷原につかみかかるようにして、その長身を抑える田代である。
「てめぇ……、病院ぐらい行かせてやれよコラ……。選挙だぁ……?? コイツが死んだら、俺がケーサツ行って全部ゲロってやろうか……。ああ……?? お前らがある国会議員のために、裏口座を集めてマネーロンダリングしていることも、時雨製薬とツルんで人身売買していることも、全部ゲロってやる……。俺を舐めんじゃねぇぞコラ……」
怯えきった谷中を、地獄の悪鬼のようにすさまじい顔で睨み、その髪を引っつかむ郷原。
「ひっ! ひぃっ!! わっ……! わかったっ! びょ、病院に行っていいっ……! ま、松木を解いてやってくれっ! 松木っ! お、お前が坊主を医者へ連れていけっ……!救急車はダメだっ…!!」
「わ、わかったよっ!!」
髪をアップにしてきれいに巻き上げ、胸元を強調した黄色いワンピースの小柄な女が、男たちの修羅場で一人、じっと息を潜めていた。
「こっ、琴子っ……! 松木を解いてやれっ……!」
女は能面のように張り付いた顔のまま、無言で頷くと、冷蔵庫に括られている松木の縛めを解いてやった。自由になった瞬間、すぐに琴子を突き飛ばし、身を乗り出す松木である。カウンターからフロアのほうへ出てくると、いきなり一発、郷原の顔面にパンチを入れた。
琴子は顔を手で被って、きゃあっと小さな悲鳴を上げた。いきなり殴打された郷原は、思わず谷中の足の上によろけて、尻餅をついた。松木の体中が、怒りに震えていた。
「舐めやがってっ!! このぐらいじゃ気が収まらねぇが、今回は仕方がねぇ……! とにかくこいつの治療が先だ……! いつかぶっ殺してやるから覚えてろっ……!!」
「ヘッ、上等だコラ……。いつでも来いよ……。返り討ちにしてやるからよ……」
ケッ、と吐き捨てるように、唾を吐くと、松木は坊主の肩を掴んだ。坊主は巨体で、100kgほどはありそうだ。松木一人ではどうにもならないので、山本、浜崎、田代と、琴子も運ぶのを手伝った。坊主を店の外に止めてあったフェアレディZに乗せると松木は、苛立ったようにイグニッション・キーを回し、何回かアクセルを吹かして周囲を威圧し、そのまま急発進していった。
たぶん、懇意にしている闇医者のところへでも行くはずだ。衆議院の通常選挙が近い今、飯田継男のスキャンダルは、飯田でメシを食っている桂川興産の松木たちにとって、痛手である。普通の病院へ行って警察沙汰にされるような、野暮なことはするまい。
田代は、琴子という女を振り返った。いつかの週刊誌やテレビでは、大物議員の浮気相手A子として、決して映されなかった顔――。
(この子が、飯田継男の愛人だった女の子……? こうして見ると確かにまだ、幼い顔をしているな……。この子の両親は、娘がこんなことになっているのを、どう考えているんだろう……)
素直に美人だな、と田代は思った。しかし、だからといって谷中や飯田のような地位のある大人が、とち狂うほどの娘とも思えない。平凡そうな女の子だ。うつむいたままの硬い表情の琴子に、田代は言った。
「悪いね琴子さん……。ちょっと谷中さんと池田さんから俺たち、話を聞きたいだけなんだ。谷中さんもたぶん、俺たちのことを誤解しているようだしな。それだけだよ。それが済んだら池田を連れて、俺たちは帰るよ……」
「わ、わかりました……」
小さな声で琴子は頷いた。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません